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短編小説 | コーヒーは、冷めない

文字数:8,551文字

——私の中で“何か”が壊れた

 正午、何の前ぶれもなくオフェスの電気が一斉消灯する。昼休憩のサインだ。節電対策と社員のオンオフ切り替えを行うために実施しているものだが、ほとんどの社員は賛成している。会社から休憩を確実に取れるよう促している面が、支持を受けているからだろう。
 記事入稿の締切が今日の午後2時に迫っている篠原希代にとっては、消灯など全く関係のないことだ。薄暗くなったオフィスで、眉に皺を寄せながらパソコンにひたすらと文字を入力していく。
「コーヒー、ここ置いとくよ」
 篠原の隣に座る加瀬良介が、紙コップに注いだ出来立てのコーヒーを篠原の左手の側に置いた。いつも飲み物を飲むときは左手を使うことを知っているからだ。
「ありがとうございます」
 加瀬の方を見向きもせず、パソコンに向き合いながら素っ気なく返答をした。加瀬も締切前の慌ただしい気持ちを理解している。篠原の冷たい態度を特に気にすることはなかった。
 お弁当を包む風呂敷をほどいている加瀬の隣から、コーヒーをすする音が聞こえた。

 加瀬がお弁当を食べ終わるのと同時に、エンターキーをバンッと叩いた音が静寂なオフィスに響いた。大きな吐息を吐きながら、篠原は天井に手を伸ばし背伸びをする。
「お疲れ、終わったの?」
「はい、やっと終わりました。あとは校正だけです」
 先程まで険しい顔をしていた篠原の顔がほころんでいる。自分のことではないが、加瀬もほっとした。篠原が緊張感を作り出していたからだろう。
「あれ?伊調君は?」
 篠原は椅子に座り直してあたりをキョロキョロと見回した。
「たぶん、いつものだよ」
 加瀬が呟くように言う。窓際にある上司の田中の席を見る。田中はいない。篠原は加瀬が言った「たぶん」を、「確実」に頭の中で修正した。「いつもの」だけで、伊調がどこで何をしているのか容易に想像がついた。
「そうですか」
 篠原はそれ以上言うことができなかった。この状況が当たり前になってきているオフィスの状況と、自分に何もできない憤りが篠原を襲う。

 昼休憩が終わる前、田中と伊調がオフィスに戻ってきた。篠原は俯いて歩いている伊調を目で追った。顔ははっきり見えないが、伊調の目の周りが赤くなっていることに気が付いた。泣いた痕跡だ。篠原と加瀬の考えていたことは的中していた。
 篠原の前の机に伊調が座る。歩いている時には気が付かなかったが、近くで見ると赤くなっているだけではなく目元が腫れている。
 明らかに落ち込んでいる様子が見て取れるのに、誰も気にしようとはしない。今すぐにでも伊調の元に駆けつけて励ましてやりたい。しかし、田中がいるうえ、オフィスの電気がすでに点灯して仕事ムードが漂っている。篠原は伊調を見ることしかできなかった。
 伊調が目線を上げ、篠原と目が合った。入社したばかりの時は、活き活きとして目が輝いていたが、今は対照的でよどんでいる。伊調は篠原が心配していることに気が付いたのか、ニコリと笑って何度か頷いた。僕は大丈夫、と言っているように篠原は感じた。
——嘘つき

 伊調は翌日も、翌々日もそれ以降も「いつもの」が繰り返された。
 「いつもの」が始まり3ヶ月ほどたった頃、伊調はうつ病を発症して休職を余儀なくされた。
 
——助けを求めなかった伊調君が悪いのではない。助けることができなかった私が悪いんだ

≪ コーヒーは、冷めない ≫


「篠原さん、今日も残業?」
 机に広がる資料を整理している加瀬が篠原に聞いた。以前、田中から机が汚いと叱責されてから、必ず机を綺麗にしてから退社するようにしている。
「ええ、外注している記事がそろそろ上がってくる頃なので。別に明日でもいいんですが、落ち着かなくて」
 ふーん、と資料を持った加瀬が小刻みに首を縦に動かす。
「明日できることは明日やった方がいいよ。知っていると思うけど。自分の時間を大切にしないと、ストレスが積み重なっていくからね」
 加瀬にとって篠原は初めてできた後輩。お節介だと分かっていながらも、気に掛けてしまうのは先輩としての威厳を保ちたいからだろう。頭の回転が速く、入社して1年でバリバリと仕事をこなす篠原のような後輩の前では特にだ。
「はい、分かっています。終わり次第すぐに帰宅します」
「そっか、無理しないで。じゃあお疲れ」
 リュックを背負い篠原の後ろを通り過ぎる。篠原の付けるほんのりとした甘い椿の香水を感じた。
「お疲れ様です」
 篠原は席に座ったまま会釈をした。
 
 伊調が休職してからは、彼が担当していた仕事を加瀬と篠原に振り分けられた。そこまで多くはないものの、残業が当たり前になっている。特に篠原は田中からの信頼も厚く、多くの仕事を任されている。
 篠原の元気がないことを加瀬は気付いていた。残業の影響もあるが、同期である伊調が休職したことが大きいのだろう。二人でよくランチに行ったり、一緒に帰っているところを加瀬は何度か目にしていた。

 * * *

 加瀬がオンラインで打ち合わせをしている最中、右手の側に出来立てのコーヒーが置かれた。誰が持ってきたのか、加瀬は確認しなくても分かっていた。パソコンの相手にはバレないように、隣の篠原に手を上げる。話のターンが相手になってから、熱いコーヒーを体に流し込んだ。
 打ち合わせが終わり、ヘッドホンを机に置いた。
「篠原さん、コーヒーありがとう。眠くなってきたところだったから助かったよ」
「いえ、お互い様ですよ」
 篠原はキーボードを叩いている手を止め、顔だけを横にして答えた。顔の表情は変わらないが、いつもよりも明るい声のように加瀬は感じた。
「そういえば、お願いしていた記事の構成案はいつ頃できそう?」
「丁度今終わったところです」
「了解、じゃあ一緒に田中さんところに見せに行こうか」
「分かりました。出力するので少し待ってください」
 パソコンを軽く操作すると、篠原は席から立ち上がり印刷機に向かった。

 加瀬を先頭に田中の元へ向かう。今日は田中の機嫌が比較的良い日であるため、ぐちぐちと言われることはないだろう、と加瀬は考えていた。
「田中さん、記事の構成案確認してもらってもいいですか?」
 加瀬がA4の紙を田中に差し出す。分かった、と言い紙を受け取ると、眼鏡の真ん中を押し上げた。机の真ん中に紙を置き、ペンでなぞりながら読み始める。
 田中が読み終わるのを、加瀬と篠原は並んで静かに待った。加瀬は何となく田中のパソコン画面を見てみるが、メールを打っている途中だったらしい。「宮野様」と一番上に打ち込まれてあるが、加瀬には分からない人物だ。田中のネットワークは広いため、その中の一人だろう、と加瀬は思った。
 パソコンから田中のペンに目を移すと、丁度ペンを置いたところだ。
「うん、悪くないんじゃないか。これはどっちが作ったの?」
 田中は加瀬と篠原を交互に見る。
「僕が全体構成の流れを作成して、細部を篠原さんにお願いしました」
「なるほど、二人は良いコンビだね。じゃあこのまま進めていいよ、よろしく」
「ありがとうございます」
 二人の声が重なる。加瀬は心の中でガッツポーズをした。反面、篠原がいたからこそできたもの。焦りが心の底をウロウロとしていた。
 田中から紙を受け取り席に戻ろうと踵を返した時、これまで静かにしていた篠原が口を開いた。
「あの、薬飲まれているんですね。どこか体調悪いんですか?」
 篠原は田中の机の上を指さしている。加瀬は体の向きを田中に戻して、指さす方を見た。カプセル型の錠剤が綺麗に3つ並んでいる。加瀬は田中のパソコンばかりを見ていたため気が付かなかったが、確かに視界には必ず入る位置に置いてある。
 田中は一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐに口元が緩んだ。
「ああ、持病を持っていてね。糖尿病だよ」
 加瀬は田中が持病を持っていることを噂で聞いたことはあるが、糖尿病だということは初めて知った。
 失礼しました、と篠原は落ち着いた口調で返事をした。
「構わないよ。君たちも生活習慣には気を付けなよ。特にストレスは本当に危険だ」
 ニコリと田中は笑った。機嫌がいい時に見せる笑顔だ。
「会社に薬を置いているんですね」
「忘れっぽいから、翌日の分を毎日持ってきているんだよ。まとめて置こうとも思ったが、それはそれで怖いからね」
「そうなんですね。お大事になさってください。それでは」
 話終えると、すぐに篠原は踵を返して机に戻った。失礼します、と言うと、加瀬も篠原の背中を追うようにスタスタと机に戻った。

 * * *

 最寄り駅のホームには加瀬の他に、数人のスーツ姿の男性がいる。ホームに音声アナウンスが流れた後、10両編成の電車が流れ込んできた。始発のため、同じ車両には加瀬と中年男性が一人だけ。入社して4年目の加瀬だが、始発に乗るのは今日が初めてだ。
 昨日、財布を会社に忘れたのを気付いたのは、加瀬がアパートに着いてからだった。取りに戻ろうかと思ったが、時間は午後9時を過ぎていた。なぜ忘れたのか、疲れた頭を巡らせてみると、財布から領収書を探している時にそのまま机に放置したことを思い出した。幸い、加瀬が退社する時には、篠原と別部署の男性社員だけ。篠原が財布を盗んだりするやつではないことは、1年も横で教えていれば分かる。後は別部署の男性社員だが、用がない限り加瀬の所属する部署には来ない。不安ながらも、加瀬は始発で会社に向かうことを決めた。
 
 加瀬が想像していた通り、会社にはまだ誰も出社していなかった。不安を早く解消したい加瀬は、電気をつけるよりも先に机に向かった。
「良かった…あった」
 安堵の一言が漏れる。財布の中身を確認するが、何かを取られた形跡はない。昨夜からそわそわしていた胸のつかえが取れ、出社したばかりだがひどく疲れたように大きく息を吐いた。
 電気をつけ、コーヒーを淹れる。午前7時前、社員はさすがにまだ来ないだろうと加瀬は思った。リュックから読みかけの小説を取り出し、栞が挟んでいるページを開く。コーヒーを飲みながら朝に小説を読むことが加瀬の日課だ。
 しばらく読んだ後、コーヒーを淹れるため席を立ったが、革靴の紐が解けていることに気が付いた。結ぼうとしゃがみ込んだ時、隣の篠原の机の下に何か落ちているのを見つけた。結ぶよりも先に、その何かに手を伸ばす。
——なんだ、これ
 小さくて透明な袋に、白い粉が入っている。加瀬は映画の悪い売人が持っている薬物を思い出した。悪い妄想が膨れ上がる。
 コーヒーを淹れに行くことを忘れ、自席に座った。白い粉を机の真ん中に置きじっと見つめる。
——篠原の机の下に落ちていたから、篠原が所持していた可能性は高いが、この粉の正体は
——この粉について、篠原に直接聞いた方がいいのか
——知らなかったことにするのがいいのか
 加瀬の頭の中は疑問と不安でいっぱいになろうとしていた。
 ピー、と会社のロックが解除される音が聞こえた。えっ、と加瀬の口から漏れる。背もたれに身を預けていた体を勢いよく起こし、白い粉をズボンのポケットに押し込んだ。腕時計を見る。時間はまだ午前7時半だ。
 後ろからカツカツと音を響かせながら、加瀬の方に近付いてきた。後ろを振り返り、誰かを確認すると加瀬の鼓動が高まった。篠原だ。
「え、加瀬さん、早いですね」
 目を見開きびっくりした様子で篠原が口を開いた。
「き、昨日さ、財布を、忘れて。それで、早めに」
 加瀬は動揺して、たどたどしい口調になった。白い粉のことを考えていた時に、疑っている本人が登場したのだから仕方ないことだ。
 篠原は眉に皺を寄せ、怪訝そうな顔をした。ジャケットを椅子に掛け、加瀬の隣に座る。
「あの、大丈夫ですか?いつもと様子が変ですけど」
「ごめんごめん、大丈夫。まだ時間早いのに、篠原さんが出社してきたからびっくりしてさ」
 とっさに嘘を付き、平然を装っているつもりだが加瀬には自信がなかった。白い粉の存在が加瀬を邪魔する。篠原は口を突き出して何度か頷いた。
「篠原さんはなんでこんなに早くに?」
「いつもより早く目が覚めたので。家でゆっくりしようとも思ったんですけど、それだったら会社で先輩たちが書いた記事を読んで知識やスキルを付けた方がいいかなと」
 加瀬の目を真っすぐ見ながら答えた。入社した時の目と変わっていない、未来を見ている目だ。
 篠原が仕事をバリバリこなせる理由が、加瀬は分かった。これまで才能だと思っていたものは、努力の塊だった。
「そうか、やっぱり篠原さんは凄いな」
 篠原に聞こえるか聞こえないかの声量で、加瀬は心の底から言葉が出てきた。
 こんなに真面目で、努力ができる人が怪しい白い粉を持っているはずがない、と加瀬は確信した。さっきまでの疑問や不安が徐々に消えていった。
「あの、これ。さっき篠原さんの机の下で拾ったんだけど、篠原さんの?」
 加瀬はポケットに押し込んだ白い粉を篠原に見せた。篠原と白い粉を交互に見るが、篠原の表情は変わっていないように感じた。
「そうです。あ、若しかして何か怪しいものだと思ってます?これは砂糖ですよ。舐めてみます?」
 篠原は加瀬の手から白い粉を優しく取り、ジッパーを開けた。机に置いてあるティッシュを1枚取り、真ん中にゆっくり振りながら砂糖を落としていく。どうぞ、と加瀬の前にティッシュを置いた。
 加瀬は一度篠原の目を見てから、砂糖を指先につけて舐めた。
「確かに砂糖だ。でも、なんで砂糖?」
「コーヒーに入れるためですよ。私、砂糖にはこだわりがあって、同じメーカーの砂糖じゃないと嫌なんですよね」
「砂糖にこだわりがあるんだ、なんか変わっているね」
 そうですか?、と篠原は笑った。整ってきれいな顔は、笑うと無邪気な子供のように感じる。普段はあまり笑顔を見せない篠原が、加瀬の目の前で笑った。彼が引き出した笑顔だ。
「だからさっき私が来た時、動揺していたんですね」
 加瀬は首を傾げ、頭の後ろを搔きながらまあ、と返事をした。篠原は先程よりも静かに、ふふっと笑う。
「加瀬さんって、単純ですね」
 篠原に対する気持ちが変わったことを、加瀬自身気付いていた。

 * * *

 早朝から続く曇天を、加瀬は電車に揺られながら眺めていた。スマホを取り出して天気情報を見る。深夜から明日の朝方にかけて降ると書かれていた。バックに常備している折り畳み傘の出番はないようだ。
 会社のドアを開けると、いつもは静かなオフィスが騒がしい。誰かミスをしたのか、若しくは自分がミスをしたのか。加瀬は今週提出した記事のことを考えながら、自分の席に向かった。
 見覚えのある後ろ背中の彼女は、既に席で仕事をしていた。
「おはよう、なんか騒がしいけどどうしたの?」
 加瀬はジャケットを脱がず、そのまま椅子に座り篠原に聞いた。
「あ、おはようございます。なんか、田中さんが救急搬送されたらしいんです。持病が悪化したとかで」
 田中から先日聞いた糖尿病のことを思い出す。篠原が「持病」と言ったのは、田中が周りの人たちに話していない可能性があるからだろう。周りが騒がしい中、加瀬は彼女に関心した。
「そうなんだ…すぐに復帰できるといいけど」
「そうですね」
 篠原はいつもの通り冷たい口調だったが、口元が一瞬緩んだのを加瀬は見逃さなかった。

 曇天の空は気まぐれで、深夜まで待たずに雨がぽつぽつと降り始めていた。いつもよりも早くオフィスの社員が一人、また一人と去っていくのは、金曜日ということと雨の影響だろう。
 加瀬が記事を書き上げた頃には、既に加瀬と篠原だけになっていた。時間は午後7時前だ。
「あれ、篠原さん今日も残業?」
 肩を手で揉みながら篠原を見た。
「いえ、今日はもう帰ろうと思っていたところです」
「そっか、連日連夜の残業続きだから早く帰った方がいいよ」
 そうですね、と篠原は頷きノートパソコンをとじた。
「加瀬さんは?」
「俺はメールを何件か返信したら帰ろうかな。田中さんいないし、ゆっくりやっていたらいつの間にか誰もいなくなっていたよ」
 誰もいないオフィスを見回しながら加瀬は言う。別部署の電気は既に消え、オフィスには少ない光が漂っている。
「私もです。待っているので、一緒に帰りましょう。コーヒー飲みます?」
 篠原の意外な発言に、キーボードを打っていた指は止まった。ゆっくりと篠原の方を見る。
「ああ、飲もうかな。ありがとう、すぐに終わらせるよ」
 はい、と篠原が微笑むと、席からゆっくり立ち上がり給湯室に向かった。久しぶりに早く帰れるからか、篠原はいつもよりも幾分元気が良いことを加瀬は感じていた。
 給湯室に向かう彼女の背中を数秒見つめた後、すぐにパソコンに文字を打ち始めた。そのタイピングはいつもよりも軽やかだ。
「どうぞ」
 右手側にコーヒーが置かれた。嗅ぎ慣れた香りが漂ってくる。ありがとう、と加瀬は言い、まだ熱いコーヒーを一口すする。彼の視界の隅で、篠原もコーヒーをすする。
 その時ふと、彼の頭の中で小さな疑問が浮かんだ。 
「あれ?コーヒーには砂糖を入れるって言っていたよね?この前は特に気にならなかったけど、篠原さんが砂糖入れているところ見たことないかも」
 え、と篠原は言い目が泳いだ。鉄壁の彼女が動揺している姿を見て、加瀬は少しばかり不審に思った。
「そうでしたっけ?でも、砂糖を入れる時と入れない時があるんですよね」
 動揺したのは一瞬で、すぐにいつもの彼女に戻った。しかし、何かを隠していることを加瀬は確信した。今思えば、砂糖を持参してまでコーヒーに入れるのは変だ。
 加瀬は持っているコーヒーを眺めながら、これまでのことを回想し始めた。しばらく考え、コーヒーを一口飲んだ時、頭の中でごちゃごちゃになっている情報が一本につながった。
「若しかして、田中さんが入院したのって、篠原さんが関わっているんじゃない?」
 篠原の眉がピクリと動く。加瀬は持っていたコーヒーを所定の位置に置き、彼女の方に体を向かせた。
「まず、ここ1カ月誰よりも遅く残っていたのは、仕事が終わらないのが理由ではなく、一人になりたかったからじゃない?それは、田中さんが飲んでいた糖尿病の錠剤の中身をすり替えるため。忘れっぽい田中さんは毎日、翌日に飲む分を机の上に置いておいた。万が一忘れたとしても大丈夫なように。錠剤はカプセル型。それらを利用して、誰もいなくなってから錠剤の中身を砂糖に入れ替えていた。血糖値を高めるために」
 篠原が持っていたコーヒーはいつの間に机に置かれ、両手が膝の上に並べられていた。顔は加瀬の方を見ているが、彼が問い出してからは一度も目が合っていない。
「理由は、休職している伊調君の仕返しのため、だよね?」
 篠原はゆっくりと顔を床に落とした。黒くて長い髪のせいで表情は見えないが、膝の上に並べられた左右の手は強く握られていた。
 少しの沈黙が続いた後、加瀬の前からふぅと息を吐く音が聞こえた。篠原は諦めたかのように滔々と話し始めた。
「加瀬さんの言う通りです。田中さんの持病を悪化させたのは私。伊調君の仕返しをするためです。彼は私の唯一の同期で、私の支えでした。でも、田中さんからの日常的なパワハラの影響でうつ病になってしまって…私はどうしても許せなかった。田中さんも見て見ぬふりをする周りも、何もできない私も。だから、原因の根源である田中さんに仕返しをしようとしました」
 話終えることには、強く握られた手にぽたぽたと涙が落ちていた。
 優秀な社員の綿密に練られた犯行。加えて、彼女が言った「私の支え」という言葉。右からも左からも打撃を食らった加瀬は複雑な心境に立っていた。
「あの、私」
「大丈夫、このことは言わない。言わないよ」
 これ以上、篠原に話をさせたくない加瀬は、彼女の話を遮った。これ以上彼女を苦しめたくないこと。そして、間接的に振られた自分の傷を深くしたくないからだ。
「俺も何もできなかったし、伊調君には申し訳ないと思っている。伊調君が来なくなってから、篠原さんがずっと元気なかったのも知っている。二人で田中さんのパワハラのこと、上に話そう。もちろん、今回の件は言わないで。大丈夫。篠原さんも、伊調君も」
 篠原は顔を伏せたまま、深く頷いた。涙は止まっていなかった。

 * * *

 田中が支店に異動と聞かされたのは、二人が総務に報告してすぐのことだった。これまでに辞めていった社員からも、田中の苦情がかなりあったようで、伊調の件が決め手となった。
 なぜこれまで対処しなかったのか、と篠原は総務に問いただしたが、総務はただただ彼女に謝るだけだった。
「謝るのは私ではなく、伊調君でしょ。伊調君に謝ってよ」
 口調は変わらないものの、淡々と詰める篠原の横で、加瀬は小さく丸くなっていた。

 その1か月後、伊調は回復し職場に復帰した。
「おはよう、篠原さん」
「…うん、おはよう」
 加瀬の横から、静かに鼻をすする音がする。何か声を掛けようか、と加瀬は迷ったがそっとしておくことにした。
 パソコンを起動させ、淹れたばかりの熱いコーヒーを一口すする。うまい、と思わず口から洩れた。

(終わり)


ありがとうございました。

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