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硝子の棺と赤い夢(6)【完】

     
 
 森では昨夜の不気味さは夢のように、静かなせせらぎや小動物の囁きが愛らしく奏でられていた。
 
 そこを確固たる足取りでゆく白い影はシェイラである。
 昂然と顔を上げて、小さな胸をときめかせて。
 歩調に迷いは見られない。
 歩みを進めるにつれて、彼の元へ近付いているのだと分かる。
 
 木々の形が少しずつ捩じ曲がったものへと変わってゆき下草の丈が伸びてきた頃、突然森が開けた。
 
 幹の茶褐色も、葉の緑も失せた灰色の空間。
 その中央にやはり灰色の塊が蹲っていることに気付く。
 
 見覚えのあるその姿。
 
 立ち竦んだシェイラの足元を風に乗って木の葉が舞い、何かが足首を掠った。
 僅かな痛みと、細い糸状のものが絡まる感触に、少女は悪寒を覚え膝をつく。
 
 見ると土色に汚れた長い糸が足に纏わりついているではないか。
 思わず顔を顰め、指先だけを使ってそれをつまみ上げる。
 
 これは髪の毛だ。

 シェイラの目が大きく見開かれる。
 嫌な感覚がした。
 こびり付いていた乾いた土がはらはらと落ちて、手には黄金の髪が一筋残る。
 
「メネス……」
 
 紛れもなくそれは親友の髪の毛であった。
 指で擦った部分だけが美しく艶やかな金色に輝いている。
 かつてあれほど憧れた綺麗な金の髪は、今や力なくシェイラの掌に横たわる残骸と化していたのだ。
 
 目の前で黄金が霞む。
 涙が溢れ世界が歪む。
 
 誰も彼女のことなど忘れてしまったのだ。
 これ(・・)だけが彼女の存在を──その美しさを残す唯一のもの。
 
 髪はシェイラを攻撃対象に定めたかのように、後から後から飛んでくる。
 最早、それら全てを拾うことも出来ずに、少女は手にしただけの髪を胸に抱き締めると風の方向に視線を送った。
 
 木々の途切れた空間に、ぽつりと転がる塊。
 それが変わり果てたメネスの屍だということは分かっていた。
 
 一夜にして色褪せたしまった服や髪飾り。
 全身から血液が抜けてしまった灰色の肌にはひび割れが。
 
 屍がうつ伏せなのが幸いか。
 美しかった顔が、どれ程醜く崩れさったのか見えなくて良かった。
 
 シェイラにはもう一瞬たりとも親友の死体に視線を送る勇気はなかったのだ。
 
「ごめんね……メネス、ごめん……」
 
 悲しげに口元を歪め、何度も繰り返す。
 いや、そうでもしないと嫌悪感に身が苛まれるのだ。
 顔を背け、親友の髪を握り締めながら少女はその場を去った。
 
 詫びの言葉が何になろうか。
 シェイラは親友を殺した男を捜して、更に森の奥深くへ入り込もうとしているのだから。
 
 しかしその必要はなかった。
 再び木々の中に入り込む彼女の前方より、濃密な気配が漂ってきたのである。
 
 地獄のように暗い空気は、間違いなく彼が醸し出すそれであった。
 続いて何かの音がする。
 シェイラは立ち上がって耳を澄ませた。
 
 聞いたことのない音だ。
 啜り泣きにも似ているが、時折異様な高音が混ざる。
 
 顔を顰めながらも、その先に求める彼が居るということだけは分かり、シェイラは親友の髪を放り出して駆け出した。
 
 僅かばかり進んだ所に嵐の通り過ぎたような空間が口を開けていた。
 放射状に薙ぎ倒された木々が彼女の足を掬う。
 そこに少女は、愛する男の姿を見付けた。
 
 周囲には鼠や野兎の干からびた屍が転がっている。
 メネスと同じ灰色の屍。彼の吸血の犠牲者なのか。
 傷を負った彼が、そんなものから血を啜ったのかと思うといたたまれなくなった。
 
 地に膝をついて黒の外套を垂らし、男は白金の髪を乱して喉元を自らの手で覆っている。
 袖口や足元も完全に布に隠され、手袋までもしているため、彼の肌は前髪の覗く顔しか分からない。
 眼球の青さに誤魔化されているのだろうか、顔色も悪いようにみえる。
 
 それよりも昨夜メネスに襲われた傷が心配で、シェイラは遠慮がちに小さな声をかけた。
 
「大丈夫、ですか……あの、吟遊詩人さん?」
 
 瞬間、外套が翻り、金髪が舞った。
 驚愕する少女の目の前で男が宙に消えたのだ。
 一瞬の後、上空の木の枝に座ってこちらを見下ろしている男を見付けたシェイラはその姿に見入った。
 
 外套と髪を揺らして、首を傾げてこちらを見ている。
 
 ──用心している?
 
 シェイラは自分こそがするべき筈の用心を忘れて、まず心配だった彼の傷を伺った。
 
 頬にも顎にも、傷跡の引き攣りすら見えない。
 しかしその顔色は、思わず怯んでしまう程青いものだった。
 
 色を失った唇を割って、炎のように真っ赤な舌が覗く。
 その色は、彼から血液というものを連想させる全てであった。
 シェイラが見つめる前で、彼は泣き出しそうに目元を歪める。
 
 ──飢え?
 
 一瞬で悟ってしまった。
 彼はべそをかいた子供だ。
 血に飢えたまま、物欲しそうにシェイラを見ているだけ。
 
 咄嗟に少女の手が翻る。
 銀の軌跡が彼女の肌を襲った。
 髪留めを引き抜くと、己の手首を切りつけたのだ。
 
 男の冷たい青の眼が一瞬大きく見開かれる。
 零れ落ちる赤が地に落ちるより早く、彼は木から飛び降りた。
 
 恐ろしい力で少女の手首をつかむ。野獣の凶行であるにも関わらず、それでも傷に唇を浸す姿の優雅なこと。
 傷口の中で舌が揺らぐ熱。
 溢れ出る血液を一滴たりとも零さないように、男はシェイラの手首に貪り付く。
 獣のようなはしたない音を立てて、吟遊詩人は少女の血を啜った。
 
「………………」
 
 傷口の熱が、ずくずくと波打つ感覚。
 彼の唇──手首を覆うそれは、信じられないくらい柔らかな感触だ。
 
 自分の全てを彼に与えているのだという優美な気持ちは、少女に至福をしか与えなかった。
 
 愛の言葉など何の役に立つというのだろう。
 この行為こそが私にとって愛というものなのだ。
 虚ろな目に、伏せられた睫毛が深い影を落とした。
 
 華奢な肉体からどんどん血液が失われていくことが分かる。
 体の重心が一気に足元へと下がっていくように、額から力が失せる。
 それでも少女の唇に上った微笑は幸福感に満ち満ちていた。
 
 最早、どうなってもいいのだ。
 自分という存在が村から消えてしまっても、このままメネスのように森の奥で朽ち果てることになったとしても。
 
 だって私は今、彼のもの。
 どうしても得たい、すべてを失っても構わないと願っていた彼の唇は今、シェイラの肌に触れている。
 
 この一瞬はすべてに勝る歓喜でもあった。
 無心に自分の腕に顔を埋める男が愛しい。

 初めの頃の貪り付く勢いは次第になくなっていき、今は溢れ出る血の球を舌先で転がして、まるで遊んでいるようにもみえる。
 昨夜メネスから「補給」したばかりなので、シェイラを吸い尽くす程の量の血液が必要な訳ではないのだろう──ぼんやりと男の顔を見下ろしながら彼女はそんなことを考えていた。
 
 メネス、という単語が浮かんだ瞬間、鈍い現実感が蘇る。
 
 咄嗟に彼に血を与えてしまったけれども、自分もメネスのような姿になるのだろうかという恐怖。今更ながらに──。
 
 己の血が、永遠に愛しい男の中を巡るのだという至福。この先永遠に──。
 
「もういいの、私……。私、あなたのことを……」
 
 少女の頬に幾筋もの涙が流れ、灰色の地に零れ落ちた。
 全てを受け入れる覚悟を決めて固く目を閉じたその瞬間。
 
 あろうことか、男は突然身体を離したのだ。
 そっと吐息をつくと、少女の顔を覗き込む。
 
「さよなら……」
 
 たった一言。
 その声は硝子細工のように冷たく、美しかった。
 少女が男の首筋に抱きつく前に、一言の言葉をかけるよりも前に、彼の姿は消える。
 
 そして、彼女の周囲で森が灰色に歪んだ。
 


結び


 それから一年が過ぎた。
 
 年に一度の祭りの日、村一番の美しい少女が自ら命を絶った。
 
 その日、美しく着飾ったシェイラが踊るような足取りで森に入って行く姿を見た者が居る。
 少女は優しく微笑むと「あの人に会いたいの」とたった一言呟いたそうだ。
 
 森の奥、彼に出会ったその場所に硝子の柩がある。
 
 透明で毀れやすい硝子の板を、何枚も組み合わせて造られたものだ。
 簡素な組み立て方であるのは確かだが、光を反射するその様は美しく、木々の緑の中で湖水のような優美さを湛えていた。
 
 彼に会えないこの一年の間に、少女が手ずから造ったものである。
 この中に入れば一番美しい姿で彼を待つことが出来るような気がして。
 柩に横たわったシェイラは、彼の唇が唯一触れた己の手首を指でなぞる。
 
 その掌から鋭い光が放たれると、少女の手首には短刀が刺さっていた。
 赤い血が溢れ出し、溢れ、硝子の柩の中に充たされる。
 そして少女は息絶える。
 
 たまらない幸福感。
 絶え間ない満足感。
 
 最後の瞬間、ふと気付いた──少女は吟遊詩人の名すら知ってはいなかった。
 
     
 
 やがて夜になり、やって来た男は硝子の柩に横たわる少女をずっと見下ろしていた。
 月の光も届かない森の奥深くで、それでもまるで硝子そのものが光を放つように少女の身体は輝いて見える。
 
 男は身を屈めた。
 美しい少女にくちづけるが、おとぎ話のように彼女は目を開けたりはしない。
 
 手首の傷跡から紅い血を流して、いつまで待っても少女は深い眠りから目覚めることはなかった。
 
 
 
硝子の柩と赤い夢・完

※最後まで読んでくださって、ありがとうございました※


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