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硝子の棺と赤い夢(2)

Ⅰ 森に揺れる不穏な赤


 笛と囃子、喚声と踊り。
 村は珍しく色彩に溢れている。
 みすぼらしい建物には原色の幕が張られ、広場には様々な果実が盛られた盆が並んでいた。
 
 村の人間は一人残らずそこに集まっている。
 収穫への感謝という名目ながら、飲み食いをして騒ぐだけの一日であるのは確かであった。だが、貧しい農村の暮らしの中でその日は年に一度、唯一の楽しみの時でもあるのだ。
 
 シェイラは広場の隅に布を敷いて座り、年齢の近い少女たちと共に果実で作った飲み物と焼き菓子を楽しんでいた。
 美味しいねとか、木の実集めは大変だったねとか、他愛のない会話。
 
 彼女たちにつられるように頷いたり笑ったりしつつも、シェイラの視線は村の青年たちとはしゃぐメネスの姿を追っていた。
 微かに曇った茶色の瞳に、美しい親友はどのように映るのであろうか。
 
 晴れやかな色合いの、けれども同年代の少女に比べると随分と大胆な衣装を身に纏って、屈託なく青年とじゃれ合うメネス。
 その姿は美しく、誰よりも輝いている。
 黄金色の髪に揺れる赤い紐飾りの何と優美なこと。
 だからだろうか。
 村に居る僅かな数の少女たちが皆、彼女の隣りではしゃぐことが出来ずにいるのは。
 
 シェイラたちの集団だけではなく、女たちは広場の隅の方に各々固まっていた。
 そこから親友の方へ漂うやっかみの視線に気付く度、シェイラは彼女たちに嫌悪を抱くのだ。
 しかし、ともすると自分もメネスを羨望の眼差しで追っていることに気付く。
 
「嫌だ……」
 
 慌てて首を振る。

 どうかしている。
 メネスは私の親友じゃないの。
 彼女は美しい容姿を持っているだけじゃない。
 屈託のない素直な性格と、太陽のような明るさには誰だって惹かれるのは道理。
 それに、親友が美しいのは私にとって誇りでもあるのだから。
 
 それでも、己の姿を恥じ入るように少女は視線を地に落とす。
 因って生じる暗さを心から追い払ってくれたのは、地面に伸びた黒い影であった。
 
「あら、シェイラちゃん。元気ないじゃないの。お菓子食べなさいよ」
 
 断りもなく少女の前に腰を下ろすと、自らが手がけた菓子の山を差し出したのはメネスの母親だ。
 娘と同じく、邪気のない笑顔に少女は思わず菓子を取った。
 
 それは薄く焼いた小麦粉にすり潰した木の実の粉をまぶした素朴な菓子で、シェイラの好物でもあった。
 村の多くの者がこの時期に作るものなのだが、メネスの母親が手掛けたそれは最高に美味しいのである。
 
 さくさくと優しい食感。
 口の中で溶ける生地の甘さと、木の実の風味を楽しむシェイラの表情には、自然と笑顔が溢れ出ていた。
 
 メネスの母は安心したようにその場に腰を下ろし、少女たちや近くにいる大人たちに惜しみなく菓子を配り始めた。
 母一人、娘一人での暮らしなのに、彼女達はいつも明るい。
 真っ直ぐに生きている。
 母親と並んでその娘の方を見ていると、シェイラにはそのひたむきさが良く分かった。
 
 この小さな村で、何年も共に過ごしてきたのだ。
 シェイラにとって一番の親友はメネスだ。
 嫉妬すら感じさせないほど二人は近しい存在であった。
 彼女の美貌が輝きを増せば増すほど、メネスは彼女の中で神格化されていた。
 
 ──もし「彼」が居なかったら、私はメネスを愛していたかもしれない。
 
 その思いは確信にも近かった。
 
 「彼」とメネス。
 蕩けるような二つの憧れを胸に描いて、少女はいつの間にか暗いまどろみの中へ落ちていった。
 ふと目覚めると隣りにメネスが座って微笑んでいたり、またまどろむと頭の下に柔らかなメネスの膝を感じたり。
 ぼんやりと遠くに聞こえる祭りの喚声も、耳元をくすぐるメネスの言葉と笑い声に消されてしまった。
 
 そうして昼が終わり、夜が過ぎて──彼がやって来た。


 祭りも最後になると、その興奮の渦も次第に静まっていくものだ。
 いつもそのような時に村にやって来る吟遊詩人が居る。
 冷たい風が吹いて広場の真ん中に炊かれていた焚き火の炎が消えかけると、森の奥から甘い旋律が届き、村全体を包み込むのだ。
 
 皆、疲れと興奮のため、我を失う瞬間である。
 或いはその場の全員が夢を見ているのだろうか。
 気を失ったように眠りこける者も居れば、彼の姿を求めて駆け出す者も居る。
 すべては幻想の中の出来事のよう。
 
 その中でシェイラは瞬きすら出来ずにじっと森の入口に目を凝らしていた。
 音楽が彼女の脳を支配しようとする正にその瞬間、男が現れる。
 
 風に靡く長い白金の髪。
 真冬の湖の底の青を映した双眸。
 血管が透けんばかりに青白い額。
 そして、血の色をした唇。
 
 こんな時でなければその容貌は人に不信感を抱かせるに違いない。
 少女にとって神であり、或いは悪魔にも見える紛うことなき美貌がそこにはあった。
 
 誰の姿も、何の障害物もその眼には映らないのだろうか。
 彼は宙を漂うような不安定な足取りで広場の中央に歩を進めた。
 その場に居る全ての人間が凍りついたかの如く動きを止めると、男はその場に座り込む。
 
 そして膝の上に乗せた竪琴を撫でるのだ。
 その愛撫に竪琴が自ら音を発するかのように──音楽が流れる。
 
 やがて村は音に満たされる。
 人は呼吸を忘れ、燃え盛る炎すらも凍りつくようにその動きを止めた
 
 聞いたこともない異国の言葉──果たしてそれは人の言葉なのだろうか──が不思議と耳に心地好い。
 高く低く、続けられる男の声が、少女の心を締め上げる。
 
 シェイラはただ彼を見ていた。
 ああ、彼は何て美しいのだろう。
 何て優雅に竪琴を奏でるのだろう、と。
 
 伏せられた睫毛が頬に落とす影。
 冷たい色をしたその眸。
 吸い込まれそうに色めく唇の赤。
 弾ける果実のように艶めいて、揺らぐ炎のようになまめかしい。
 
 その赤だけだ。彼という存在が、血の通った生物であると示すただひとつの色であった。
 
 彼女が吟遊詩人の紡ぎ出す音の深海に浸れなかったのは、彼を愛してしまっていたから。
 愛に伴う欲望。それが皮肉にも、無心に彼の世界に身を委ねることを拒んだのだ。
 
 ──ああ、何を引き換えにしたって構わないわ。その赤の唇に触れることができれば。
 
 少女の心は叫んでいる。
 一瞬で良い。彼が生者である唯一の証である赤に、この指で触れることができるならば……。

 彼が自分を一目見てくれれば、貴婦人に対するように恭しく手を取って口づけを落としてくれれば──それだけで少女の想いは成就したことだろう。
 それだけで彼女の心は救われたはずだ。
 思春期の憧れはやがて形を変え、良き思い出となって心の奥底からやがて消えてゆく。
 
 しかしこの時、彼はシェイラを見つめはしなかった。
 あろうことか、彼はメネスを見ていたのだ。
 
 その瞬間、シェイラは気付く。
 自分の隣りにいる美しい少女も彼を愛していたのだということに。
 
 嫉妬だろうか。
 憎悪だろうか。
 シェイラの可憐な貌が醜く歪む。
 今まだ漂っていた不思議な音の世界から一気に現実に引き戻され、彼女は──恐らく初めて──愛する男を正面から真っ直ぐ見た。
 その瞬間、少女の身体は竦みあがる。
 
 男の眼が宿す凶暴な光に心臓をわしづかみにされたのだ。
 飢えた狼ですらこのように利己的で攻撃的な眼をすまい。
 唇には優雅な微笑を形作りながら、その眼だけは虎視眈々と獲物を狙うそれに変貌していた。
 
 何か……いや、誰かを狙っているのだということは容易に想像がつく。
 その視線の先に居るのはメネスであった。
 
 恋に焦がれたシェイラの心が凍りつく。
 
 全身が粟立つのが分かった。
 
 微かに首を振って周囲を見渡すがメネスをはじめ皆、とろりと表情筋を蕩けさせているだけである。
 誰も、彼が醸し出す危険には気付かないのだろうか。
 しかしシェイラ自身もここに居る者たちと同じ表情を崩すことは出来なかった。
 恐怖にわななく心で、それでも止まぬ憧れをその眼に宿して。
 
 防衛本能か。
 彼の心を見抜いたということを、本人に悟らせてはならない──そう思ったのかもしれない。
 否、今まで自分が知っていた美しいだけの無表情よりも、凄みすら感じさせる今の彼の貌に見とれてしまったのかもしれない。
 
 しかし、悲しい哉。
 愛おしい男の視線は隣りのメネスから逸らされることはなく、シェイラはいつまでたっても彼に気付いてはもらえなかった。
 
 ──私を見て。あなたの眸に射殺されてもいい。だから……。
 
 切実にそう願っていたというのに。
 
 そのまま時は過ぎ、美しい音楽の中でシェイラが味わった地獄は終わりを告げる。

 吟遊詩人が歌を止めて立ち上がったのだ。
 
 このまま、いつの間にやら彼の姿は消えているのが常である。
 誰も彼がどこに消えるのか知らない。
 
 その姿が消えた瞬間、漸く人々は我に返るのだ。
 炎は動きを取り戻し、人は夢から覚める。
 広場からは徐々に静寂が取り払われ、ざわめきが戻り、そして祭りは終わるのだ。
 
 そして、何でもない一年が再び始まる。
 
 以降村人の誰もが彼のことを口にしないのは、或いは祭りの非日常の喧騒が見せる夢だと思っているのかもしれない。
 
 夢か現か、今年も同じようになる筈だった。
 しかしシェイラには、いつもの現実は訪れなかった。
 
 彼の隠された狂気に気付いたからか。
 彼の奏でる音楽に幻惑されなかったからだろうか。
 
 立ち上がる一瞬に、彼の長い爪がメネスに向けられたことに気付いたのだ。
 そして指差されたメネスが、我を失ったようにふらふらと立ち上がる様も。
 ちらりと横目で見た親友の顔からは血の気が失せ、眼は取り憑かれたかの如く彼の姿のみを追っている。
 
「だめ……メネ……」
 
 彼女だけに聞こえるようにシェイラはその名を呼ぼうと試みたが、口の中がからからに渇いていて声は音にならなかった。
 眼球で親友を追うだけ。
 
 メネスは吟遊詩人から一定の距離を置いて彼に付いて行く。
 夢見るような足取りに、シェイラはひどく危ういものを覚えた。
 
 二人の姿が森に消えるまで動くことは適わない。
 やがて彼の影響下から抜け出た広場の空気がいつものものに変わった瞬間、シェイラは跳ね起きた。
 
「どうしたの、シェイラちゃん……」
 
 背後からメネスの母親の声が、ひどくゆっくり聞こえてきた。
 
「メネスが……。た、助けなくちゃ……!」
 
 間に合うかどうか分からないが、二人を追う。
 彼に会いたいのか、メネスが心配なのか分からない。
 
 それとも単に彼らを二人きりにしたくないだけなのだろうか。
 嫉妬と羨望──頭は混乱している。
 シェイラは息を切らせてただひたすら走っていた。
 
 慣れた場所の筈だ。
 しかし森に入った途端に方向感覚が狂い始める。
 微かに見えていた二人の後ろ姿も木の葉の乱舞に霞み、やがて少女はたった一人で森の奥に取り残されることとなった。
 
 心細く、恐ろしい。
 
 しかし助けを呼ぼうにも少女は彼の名すら知らなかったのである。



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