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硝子の棺と赤い夢(5)

Ⅱ 真実の向こうに、夢

 しかし、そうはならなかった。
 
 ひどく重苦しい頭を擦りながら起き上がってみると、彼の存在は相変わらず彼女の思考の大部分を占めていたし、昨夜味わった恐怖も身体に染み付いたままだった。
 窓から差し込む太陽は悪夢のように眩しく、周囲から届く笑い声や怒鳴り声は壊れそうに頭に響いた。
 
「いけない……」
 
 かなり寝過ごしてしまったようだ。
 空気は既に日常のものへと戻っており、家族たちも各々の仕事を行っているようだ。
 
 村人たちもまた然り。
 外からは槌を打つ音やら、麦を捏ねる気配が届く。
 
 広場の向こうにある石釜には、勤勉を意味するように今日も火が入っていた。
 ここで岩石を溶かし、硝子を作るのだ。
 こちらには村の男たちが忙しく立ち働いている。
 
 この時期、女たちはもっぱら冬を越すための保存食の調理に勤しむことになる。
 木の実を集めていた少女たちも、広場の片隅を陣取って実の選別や加工を行っているはずだ。
 
 夕べの出来事は夢ではないと分かっている。それでもシェイラは、広場で他の少女たちと共に仕事に励むメネスの姿を求めて家を飛び出した。
 
「ご、ごめんね。遅くなって……」
 
 なるべくさり気なさを装って広場の少女の群れの中へ入っていく。
 
「シェイラ、遅いわよ」ひとりが立ち上がった。
「これの続きお願いね」一人が彼女の手を引く。
 
 メネスは居なかった。
 
 いや、それよりも何だか雰囲気が違う。
 二人の少女に挟まれてシェイラは戸惑った。
 
 広場に固まっている少女たちは皆一様に自分に向かって飛び切りの笑顔を向けているではないか。
 目には憧れを宿して?
 
 こんな目には見覚えがあった。
 僅かばかりの嫉妬と、溢れんばかりの憧れを込めたきらきら輝く瞳。
 
 そう、これは硝子や池の水面に映る己の顔だ。
 メネスを想う時、彼女はいつもこんな目になっていた。
 勿論、シェイラ一人だけではない。
 村の少女たちは皆、メネスの美貌に魅かれ、憧れ、羨み、妬んでいたのだから。
 
 その視線が何故、今は自分に向けられているのか。
 尋ねることが怖いような気がした。
 止めておけと、心は叫んでいる。
 しかし彼女は口を開いた。
 
「ねぇ……メネス、は?」
 
 声が震える。額に冷たい汗。
 何もしていないのに心臓が早鐘を打ち、胸に黒い影が過ぎる。
 例えようもなく嫌な感覚──予感。

 いまにも大好きな友人が「遅くなってごめんね」と駆けてきそうなのに、影は胸いっぱいに広がり、遂に心は真っ黒になってしまった。
 
「めねす? なぁに?」
 
 赤毛の少女が首を傾げる。
 恐れていた答えに、シェイラの背に冷たいものが走った。
 
「き、金色の髪をして、踊りが上手な……。そう、紫の目がとても綺麗で。私たち、いつも一緒だった……」
 
 必死の表情でメネスの特徴を並べ立てるが、少女たちは顔を見合わせて笑みを零すばかり。
 
「何なの、シェイラったら。変なの」
「まだお祭り気分が抜けてないのね」
 
 小鳥の囀りのように彼女たちの声は耳に心地好い。
 しかし明るい広場の中で、シェイラは自分の足元だけに暗い深淵が口を開けたことを感じた。
 
「そうなの……誰もメネスのこと、知らないのね」
 
 言うが早いか彼女は身を翻した。
 背後からの黄色い声がいつまでも耳の奥に残る。
 
 夕べの不気味さなど全く感じさせない、静かな森の入口近くにメネスの家は建っている。
 森の木と、特産物の硝子を使って作られた家屋は、村の中でもとりわけ小さなものであった。
 
 そこにメネスは、お菓子作りが得意で気さくな母親と二人でつつましく暮らしているのだ。
 扉も叩かずに彼女はいきなりそれを開け放った。
 
「おばさん、メネスはどこに行ったの? 知ってるんでしょ」
 
 声は空しく響いた。

 シェイラの動きがのろのろと止まる。
 
 確かにここはメネスの家だった。
 昨日までは入った途端、優しい花の香りに包まれたものだ。
 刺繍を施した寝台の覆いや明るい色の絨毯等が、狭いながらも女性らしい暖かな空間を作り出していた。
 
 だからシェイラには今のそこ(・・)が信じられない。
 
 何年油を差さなかったのだろう。
 扉の軋む嫌な音に、まず彼女の足は竦んだ。
 
 僅か二部屋しかない屋内は、玄関からすべて見通すことができる。
 内部は一夜にして変貌していた。
 
 小ぎれいにまとめられた装飾類は影もなく、汚らしい布切れがあちこちに丸められている。漂う異臭は安酒の匂いだろうか。
 
 その中──部屋の隅に黒く蠢く影を見て、シェイラは悲鳴を飲み込んだ。
 
「お、おばさん……?」
 
 声が掠れた。
 奥に蹲っているのは間違いなく親友の母親だった。
 
 しかしその姿はいつも見るものとはかけ離れている。
 ざんばらの髪を纏めようともせずに振り乱し、荒れた肌には手入れの様子すら認められない。
 ひび割れた長い爪。
 酒瓶を手にしただらしない姿からは、あの陽気な彼女を思い出すことは出来なかった。
 
 勿論、ここにもメネスは居ない。

 息を飲んだまま動かずにいたシェイラをじろりと睨むと、親友の母は面倒臭そうに立ち上がった。
 
「久しぶりの客かと思ったら……何なのよ、お譲ちゃん」
 
 乱れた髪の下からは濃い化粧が覗く。
 
「ここはあんたなんかの来る所じゃないよ」
 
 帰んな──吐き捨てるように言われて、シェイラは思わず後ずさる。
 この村には娼婦なんて居なかったのに。
 この村で、こんな自堕落な女を見たのは初めてだった。
 
 これが大好きなメネスの母親なの?
 
 唾棄する思いでシェイラはそれを見つめていた。
 ああ、それでも尋ねなければならない。
 
「あ、あの……メネスはどこですか……」
 
「誰?」
 
 女は再び床に尻をつくと、酒瓶を煽る。
 
「知らないわよ。そんな女。そもそもあんたは何しに……」
 
 とてもではないがそれ以上聞けなかった。
 潤んだ目を見られないように少女は再び走り出す。
 
 家にも広場にも戻れない。
 彼女は近くの森に飛び込んだ。
 断続的に嗚咽と吐き気に襲われて、彼女は木にしがみついて涙を流した。
 
 誰もが──産みの親ですら──メネスのことを忘れてしまった。

 そこから考えられる結論は唯ひとつ。
 
 メネスの存在は消えてしまったのだ。
 メネスは初めからこの世に居なかったことになる。
 だから彼女を産んでいない──母親にならなかった彼女は、あのような生活に溺れていってしまったのだろう。
 
 それともメネスはシェイラの中だけに存在するものだったのだろうか。
 自分は生まれた時からずっと、メネスという架空の友人を見ていたのだろうか。
 空想と現実の区別が、遂につかなくなってしまったのだろうか。
 
「違う!」
 
 シェイラは激しく首を振った。
 昨日までメネスに憧れ、時にはその美貌に嫉妬の念すら抱いていた自分の存在までは否定できまい。
 
 誰もがメネスの存在を忘れてしまった。
 そして、自分だけが彼女を覚えている。
 
 シェイラの心は千々に乱れた。
 全ての人の記憶から消えるというだけで、昨日まで生きて動いていた人間の存在は抹消されてしまうのだという恐怖。
 存在の儚いからくり。
 
 そこまで考えた時、少女の華奢な体が稲妻に打たれたが如く激しく震えた。
 その振動で寄りかかっていた木から無数の葉が落ちる。
 
 ──メネスだけではない!
 
 昨年は青い髪をしたレファリアが。
 一昨年は銀髪のシャーリーが……シェイラの記憶から消えていた。
 
 何故今まで忘れていたのだろう。
 
 物心ついてから毎年、祭りの次の日には十代の美しい乙女がその姿を消していたではないか。
 そして彼女たちのことを忘れてしまった代わりに、不思議な吟遊詩人への憧れを募らせていったような気がする。
 
 彼女が幼いころから彼の姿は何一つ変わってはいない。
 冷たい眼をして村へやって来ては、美しい少女を一人連れて行ってしまうのだ。
 
 少女たちの運命は、夕べ見たメネスのそれと同じものに──?
 
 ずっと耳の奥に残っていた彼の竪琴の音色が、酷く禍々しいものとなって蘇ってきた。
 
 広場に戻って皆に言うべきだ。
 皆で協力してこの事態に対処するべきだ。
 そう分かっていた。
 反面、こんな奇怪な話など誰も信じないであろうことも哀しいかな、理解できる。
 
「どうしたら……」
 
 少女のよろめく足は、広場ではなく森に向かっていた。
 村の人たちの所ではなく、悪魔のような彼の元へ。
 彼はまだそこに居る──そう感じたのは、理性ではなく本能だ。
 
 ああ、この空気。この気配。
 彼が近くに居ると分かる。
 人を殺め、人の記憶を操る吟遊詩人──あの人が悪魔であろうが、無慈悲な天使だろうがどうでも良いのだ。
 
 何故ならば、少女は彼を愛してしまっていたのだから。
 


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