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硝子の棺と赤い夢(3)

     
 
 森の鼓動は彼にとって常に優しい。
 母親の胎内の温もりを思わせる夜の森。
 
 何を考えているのか、時折溜め息をつきながら男は歩を進める。
 枯れ葉が靴の踵に引っかかる故か、足取りは緩やかであるが、迷いなくある一点を目指していることが分かった。
 
 黒い外套を風に靡かせながら、絹で織られた袋に竪琴をしまいこみ背に負ったその姿。
 楽器を扱う時は外していた手袋を取り出すと、長い爪と白い指を覆い隠す。
 
 森の向こうでは静かなざわめきが、さざ波のように広がる気配。
 静謐の只中であった村の広場に、人の声が戻ったようだ。
 
 だが、そんなことは今の彼には関係ない。
 
 漸く気付いたとでもいうように背後に視線を走らせた。
 自分を見つめる少女の虚ろな視線。
 真紅の紐飾りが、金色の髪の隙間で遊んでいる。
 
 反射的に、男は微笑を返して寄越した。
 しかしその目が何の反応を示さないことを見て取ると、微笑は苦笑に変わる。
 他人を魅了することに何の感慨も抱かない傲慢な男の声。
 
「紫の眼か……珍しい」

 指先がゆらりと動く。
 
「こちらへおいで」
 
 おとなしく従う少女を抱き寄せると暫くの間、唇も触れ合わんばかりに顔を近付け、しげしげと紫の眼球に見入っている様子である。
 薄い桃色の頬を撫でる爪先が優雅に踊る。
 
 怯んだ彼女が反射的に身を引くと、彼も素早く指を退ける。
 手袋越しに己の爪で少女の柔肌を傷付けることを恐れたのだろうか。
 それを優しさと勘違いした少女が至福の笑みを浮かべた。
 
「あたし……ずっと貴方のこと見てたの。何てきれいな人なんだろうって」
 
 そして囁く。
 
「あたしはメネス。ねぇ、貴方の名は……?」
 
 うっとりと目を閉じる。
 男の声が己の名を囁いてくれるものと期待して。
 
 しかし彼は無言で頷いただけだった。
 お返しに自らの名を明かしたりもしない。
 
 暫し世界は風の音に支配される。

「ねぇ……あたしをどうするの?」
 
 沈黙に耐え切れなくなったのか、少女が男の袖をつかんだ。
 ひらひら長く揺れる袖は、どんなに力を込めて引っ張ろうとも一向に手応えを感じさせない。
 
「ねぇ……。な、何か言って……」
 
 今度も答えは返ってこない。
 吐息と共に微かに漏れる声はぞっとする程低い。
 そしてそれに続く声は、言葉ではなかった。
 微かな震えが彼女の鼻先をくすぐる。
 
「笑っているの……?」
 
 少女の声に微かな怯え。
 
 ──何故、とは聞けなかった。
 笑みを造っているのは唇だけで、彼の眸からは一向に感情が伺えないから。
 青の硝子玉は怯えた少女を映すのみ。
 
 再びの沈黙。
 風と木の葉の揺れる音が心地好いのか、男は顔を上げて大きく溜め息を吐いた。
 
 メネスの身体を抱き締めたまま、そっとその髪を己の手に絡めてみせる。
 肩にかかる黄金を全て払いのけると、露になった白い首筋に指先を這わせた。

 唇の微笑は作り物のそれから本物の歓喜の様相へと変わり、目元は柔らかく細められる。

 最早、少女は紫の眼を見開いたまま男を見つめるだけ。
 徐々に肩に喰い込んでいく男の爪が少女の血の色に染まり、僅かに彼の貌に飛び散る。
 
 口元を汚した血を舐め取る時、男の唇の隙間から尖ったものが覗いた。
 やがて開かれる口から、それが異様に発達した犬歯であることが分かる。
 
 少女が観念したかのように紫の目を閉じたためか、彼の紳士的な笑みは慇懃に凍り付いた。
 まるで己の夢想の中に入り込んでしまうかの如く、白い首筋に顔を埋めていく。
 液体をすするはしたない音。漏れる吐息は荒々しく、周囲の闇に染みこんでゆく。
 
 今の彼の頭にあるのは、目の前の犠牲者(メネス)のことだけなのだろう。
 だから気付かなかったのだ。
 背後で木の葉が警告の叫びを発していることに。
 耳を澄ませば聞き取れる筈の小さな足音が近付いて来ることに。
 
 咽ぶような鳴き声にも似た少女の喘ぎが彼を求めているというのに、男は視線を動かすことすらなかったのだ。
 

     
 
 木々の緑の隙間から金の髪と黒の外套を見付けて、シェイラは漸く涙を拭った。
 吟遊詩人とメネスを追って森に入ったもののすぐに二人を見失い、夜の森の不気味さと心細さに、今までの狂気にも似た情熱はとうに失われてしまっていた。
 
 漆黒にも近い夜の色彩に、ともすれば取り囲まれそうになる中、僅かに漏れる月あかりだけが頼りだ。
 
 最早、二人を追うことなどどうでも良い。
 村に帰ろうと後ろを振り返ったが、木々は闇に同化するように枝を振りかざして、出口を教えてはくれない。
 
 何処を見ても同じ景色。
 何度も頭を巡らせたものだから、方向感覚は全く機能を果たさなくなっていた。
 声をあげて泣かないことには気が狂ってしまうような沈黙世界を彷徨っているうちに、更に森の奥深くに入り込んで行ったようだ。
 
 やがて涙も涸れた頃、漸く彼らを見付けたのだ。
 先程の感情も忘れ、思わず駆け寄ろうとした少女の足を止めたのは、そこに暗黒の森よりも暗い世界が口を開けていたから。

 男の腕の中で少女が力を失っている。
 その白金の髪の隙間から、男の美貌が覗く。
 真紅の唇から覗かせる鋭く尖った牙を少女の白い首筋に埋め、青の眼だけは恐ろしく冷酷な光を宿して獲物の顔を喰い入るように見つめていた。
 
 シェイラが悲鳴を上げなかったのは、見事な対照を成す血の赤と、男の肌の白に魅入ってしまったから。
 埋めていた牙を引き抜く度に溢れる血潮を顔いっぱいに受けて、男は愛おしそうに少女を抱き締めた。
 
 やがて、メネスは息絶える。
 かくり、と友人の首が力を失った。
 
 その黄金色の髪の先がゆらゆらと地に垂れる。
 赤い紐飾りが、するすると解け地面に落ちた。
 
 閉じられた瞼の下では紫の眼球が震えを止める。
 血液だけが暫くの間、無造作に流れ続けていることが少女の死を艶やかに彩っていた。
 
 最後の一滴まで舐め取ると、男は少女の身体を放り出した。
 唇を染める血を真っ赤な舌で拭って立ち上がる。
 外套に零した犠牲者の血液が気になるのだろうか。
 頻りにその部分を擦っていた。
 
 その時だ。
 彼が背後の気配に漸く気付いたのは。

 鋭く振り返った男の姿に一瞬見とれたシェイラは、咄嗟に身を隠す術を持たなかった。
 
「………………」
 
 ──見たのか、と言いたかったのだろうか。
 男の口が微かに動いたように感じたが、シェイラの元には何も届かない。
 
 尋ねるまでもなく明らかな故、彼は言葉を飲み込み、代わりに少女を取り込もうとするかの如く笑みを作った。
 その真っ赤な唇に恐怖を感じる余裕すら、今のシェイラは持ち合わせてはいない。
 
「メネス……は?」
 
 メネスは死んだの?
 あなたは何者なの?
 
 尋ねたいことは山のようにあったが、掠れた声は何も紡ぎはしなかった。
 
 屍体を足元に、男は微かに首を傾げて木の向こうから覗く少女の顔を伺っている様子だ。
 瞬間的に少女に害意がないことを察知したのか、それともこのような小娘など如何様にでも丸め込めるとでも思っているのか、その姿からは些かの焦りも感じられない。
 相変わらずそちらの方が気になるのか、外套の汚れを指先でいじくっている。
 
「……あの、そっちへ行っても、良いですか?」
 
 体中の気を振り絞って少女が小さな声を上げる。

 吟遊詩人は無言でちらりとシェイラに視線を送ると頷きを返した。
 
 眼を見開いて唇を微かに歪めたその表情から、彼の戸惑いが感じられる。
 少女がゆっくりと親友の傍へ歩を進めるのを、彼は止めようとはしなかった。
 
「メネス……」
 
 地面に伏した友人の亡骸を抱き上げる。
 顔に付いた土を払ってやると、その死に顔にシェイラは息を飲んだ。
 
 私の友人は、ああ……何て美しいのだろう、と。
 
 生ある人間には余計なものが多すぎる。
 血色の良い頬とか、生き生きした輝く瞳とか、よく動く唇とか。
 
 それらを取り除いた姿こそが人形の如き完璧な美を象徴していると、この時シェイラは気付いたのだ。
 だから彼女の心は親友の死に打ち震えることはない。
 むしろ僅かにそれを羨む気持ちがあったことも否めない。
 
 我知らず、シェイラの足は今度は吟遊詩人の方へと引き寄せられていった。
 
「聞いてなかったのか……?」
 
 一歩、二歩、少女から身を退けると男は眉根を寄せた。
 初めて彼の表情に困惑が浮かぶ。

 憑かれたような目をしたこんな少女に怯えているわけでもあるまいが、彼の様子が微妙に違っているのは疑いようもないことだ。
 
「何? 私は何も聞いてない……」
 
 夢見るような少女の口調。
 
「いや、そうではなくて……」
 
 男は首を振る。そして一瞬固く目を閉じた。
 
「そうだね、何も聞いてはいなかった。だから……」
 
 ──信じがたい話だ。
 
 吐き捨てるように呟くと睫を伏せた。
 
 聞いていないとはどういうことなの?
 
 しびれるように動きを止めるシェイラの頭の片隅が、ふと疑問の声をあげる。
 考えるまでもない。
 なんとなく分かっていた。
 
 彼の持つ不思議な力。
 彼の竪琴の奏でる旋律には魅了の力があったのだろう。
 知らず知らず彼の意のままに動く力をそれは秘めているに違いない。
 
 私はずっと彼だけを見て……何も聞いていなかったから。
 だからその術中に嵌らなかったのだと、彼女の胸に優越感という微かな光が灯される。

 男は溜め息をついたり髪をかき上げたり、いつになく戸惑いの感情を露にしていた。
 自分の思い通りにならなかった目の前の少女をどの様に扱うべきか困惑しているのだろうか。
 
「いつも……毎年、こんなことをしていたの?」
 
 シェイラの視線の先にはメネスの屍。
 だからと言って、彼に恐怖や失望を抱いたというわけではない。
 
 いや、誰も知らない彼の姿を自分だけが知ったという喜びの方が勝っている。
 いつも自信に満ちていた彼の戸惑ったような貌を初めて見て、まるで母親のような保護本能が不意に沸き起こったという事実も否めない。
 
 そっと腕を差し伸べる。親友を殺めた男に。
 そこにどんな危険が待っているか深くも考えずに。


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