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鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記(10)

 ここはモン・サン=ミシェル島の裏手に当たる位置であった。
 島の表側には賑やかな参道(リュ・グランテ)が伸び、修道院へと登る細い通路が造られている。
 修道院を中心とした狭い島は、周囲をぐるりと囲むように石造りの道路が設えられてあり、今アミがきらきらした瞳を向けているのは幅の狭い通路の向こう側であった。
 彼女があまりに嬉しそうにそちらを見つめるので、ラドムも戸惑ったように眼を凝らす。
 
 彼女の視線の先、石で造られた民家の間を一人の人物がこちらに向かって駆けて来ていた。
 森の小動物のように忙しなくせっせと足を運ぶのは、骨と皮だけに見える痩せた中年の男だ。
 修行僧のような粗末な衣服に身を包み、足取りは覚束ない。
 
「おかえり、ガリル・ザウァー! この子目をさましたよ。ラドムって名前なんだって」
 
 アミの大声に男はちょこまかした動きで近付いてきた。
 ちらりと少年に視線を移すと、男は間の抜けた笑顔を見せる。
 
「気が付きましたか。それは良かった。怪我の具合がひどそうなので、心配していたんですよ」
 

「あ、あの……」

「こちらはモン・サン=ミシェルの裏側ですよ。一度正面に回って山を登って礼拝してみなさい。祈れば涙も止まりますよ。ラドムさん、貴方に神のご加護がありますように」
 
 どうやら失神中に対面は果たしているらしい。
 少年は赤い目を誤魔化すように瞬きを繰り返した。
 アミやシュタイヤー、ロムたちから名前が挙がっていたガリル・ザウァー──年齢から鑑みて、彼らの保護者的な存在なのかと窺える。
 
「それよりうっかりしていました。もう出かける時間です。支度してください、アーミーさん」
 
 保護者の性急な要請に、しかしアミはのどかに首を傾げてみせる。
 
「それよりガリル・ザウァー、この子も一緒に住んでいいだろ? わたしと同じ孤児なんだ」
 
 はいはい、どうぞという気の抜けた返事を得て、彼女はアリガトウと一人喜んだ。
 
「貴女はいつも天真爛漫で良いですね。ああ、きれいな銀髪だ。眩しいくらいですよ」
 
 そうか、とアミは左手で自身の髪を撫でて嬉しそうに笑う。

 そんな彼女を尻目に溜め息をついたのは、話題に上ったラドムであった。
 
 褒めてない。
 ソレ、絶対皮肉だと思ったものの、口に出すのはさすがに堪える。
 
 僅か二十分前に初めて言葉を交わした相手であるが、少女の抜けた性格は手に取るように分かってしまったから。
 
「どこかに行くの?」
 
「うん。ガリル・ザウァーとおつかいに行く。ラドムもくるか?」
 
 そのままの格好で出掛けるつもりなのだろう。
 アミは一歩、足を動かしながら頷いた。
 
「う、うん……僕も行く。ちょっと待ってて」
 
 どこへ向かうかも聞かされていないのだ。
 返事は躊躇われたが、今アミから離れるのは不安でならない。
 
 二人の答えも待たずに少年は家に戻った。

 裸に包帯を巻いただけの格好である。せめて上に羽織れるものをと周囲を見回した。
 
「お前、アミさんと行くのかよ?」
 
 外での会話が聞こえていたのだろか。騒々しく声をかけてきたのはロムだ。
 「しーっ!」とラドムは唇の先に人差し指をあてる。
 
 シュタイヤーといったか。
 あの黒ずくめ男に知られはマズイ。きっとマズイ。
 不快の念を抱かれるかもしれない。
 
 しかし室内に、闇のようなその姿はなかった。
 いつの間にか出て行ったらしい。
 ほっとした彼に向かって、ロムが手招きする。
 
「なら、包帯換えてけよ。血で汚れてヒドイことになってんぞ。そもそも腹の傷は大丈夫なのかよ。ったく、タフなヤツだな」
 
「でも、早く行かないと……」
 
 焦って首を振ったラドムを強引に座らせると、ロムは慣れた手つきで赤黒く汚れた包帯を外した。
 
「一緒に行くならアミさんのこと守れよな」
 
 小さな声で呟いたロムの頬が赤いことに、ラドムは気付く。
 

「何? アミのこと、好きなの?」
 
「ちっ、違ぇよ! バカだろ、おまえ。バカ!」
 
 バカバカ連発しながらロムは白々しくうろたえて見せた。
 実に分かりやすい。
 苦笑と意地悪を込めて「ふーん」と笑うラドム。
 その表情に腹を立てたのだろう。ロムはラドムの腹をつついた。
 
「痛っ! ちょっ、僕は怪我人……」
 
「こんな生意気なケガ人がいるもんか! お前こそアミさんのこと好きになったんだろ。さっき顔を真っ赤にしてたの、気付いたんだからな」
 
「ち、違うよっ。馬鹿じゃないの! ちょっ、痛いってば」
 
「バカはお前だろっ」
 
 少年たちは笑いながら床を転がる。
 腹の怪我は痛む。
 だが、それ以上にロムの明るさと笑顔がラドムの傷を癒したのだ。
 

 心の底から沸きあがるような笑い声──それが自分の声だということにラドムは驚愕した。
 ああ、ユダヤ人ということを理由に銃口を、刃物を向けられる日常から、自分は脱することができたのだろうか。
 だから、初対面の人物とのくだらない会話で笑えてしまうのだろうか。
 馬鹿みたいにじゃれ合って、なのにそれがこんなにも楽しいなんて。
 
「おい、ラドム? 痛かったか? ごめんって」
 
 膝に一滴の水滴が零れたことで、ラドムは違和感に気付いた。
 あたたかい水は、あとからあとから彼の足を濡らす。
 
 ロムの心配そうな顔が迫る。
 そっとのびる指先。
 初めはロムの手が濡れているのだと思った。
 
 優しく頬をなぞられて、ラドムはようやく気付く。
 水は自分の目から零れているのだと。
 
「……そうだね。アミが好きだよ。アミが助けてくれないと、僕は死んでた。僕は父に、そして母にこの命を守られたんだ。もう守られたくはない。今度は僕がアミを守るよ」
 
 己に言い聞かせるかのようにゆっくり語るその声には、少年の決意が表れていた。
 
「ありがとう、ロム」
 


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