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鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記(2)



 不意に光が床に移動したのは、男が天井の金具に懐中電灯を吊るしたからだ。
 同時に長身の男の影が、船倉の壁に禍々しく浮かび上がる。
 無言で身を寄せ合う親子を、美味しい血を見付けた吸血鬼のように至福の笑みで見下ろして、男はざらついた笑い声をあげた。
 
「覚悟の上だろ? これは帝国(ドイツ)に対しての重大な犯罪行為だよ。一家全員、死刑は免れないなァ」
 
 耳に障る嫌な声に、力が込められる。
 
「死ねよッ!」
 
 瞬間、息子を抱く父の身体が硬直した。
 夫の背に柄まで深く突き立ったナイフを見て、母が押し殺した悲鳴をあげる。
 
 その声を、まるで極上の音楽を楽しむかのように双眸を閉じて聞く殺人者の姿。
 細い懐中電灯の光の中にはっきりと浮かび上がった喜悦の表情。

 その男を、ラドムは睨みつける。
 
 若い男だ。
 二メートル近い長身、その細身の身体をドイツ軍服で包み、ベルト周りには幾本ものナイフを装着している。
 脱色した髪を風になびかせ、死神のように青白い額にはどす黒く変色した赤い液体が飛び散っていた。
 無論、自分のものではあるまい。
 ここ数分のうちに殺した相手の返り血だ。
 
 音楽(悲鳴)が途切れたその刹那、死神の双眸がカッと開かれる。
 赤く充血した双眸が少年と母親を捕えた。
 
「ラ、ラドム。逃げてっ!」
 
 叫び声と共にラドムの手が凄まじい力で引っ張られた。
 母だ。
 細い腕にありったけの力を込めて息子を突き飛ばす。
 そのままの勢いで小柄な身体は扉近くの床に激突した。
 
 同時に女は動いていた。
 己の体重に渾身の力を重ねて、ドイツ兵に体当たりしたのだ。
 
「ワ、ワッ!」
 
 ひょろりと長い体躯の男はそのまま床に倒れ込む。
 
「母さんっ」
 
 少年の悲鳴は、男の右手に新たなナイフが閃くのを捉えたからのものだ。
 しなやかな手は無駄な動きなく、刃のきっ先を女の心臓に向けた。
 
「死ねッ!」
 
 一片の慈悲もなく刃物が翻り、一瞬後に女の心臓は冷たい金属に貫かれている筈だった。
 しかしそうならなかったのは、男の腕に何かが取り付いたからだ。
 
「母さん、逃げて!」
 
 その小柄な姿はラドムだ。
 大木にしがみ付く小動物のように、両手と、それから足も使って男の腕に喰らいつく。
 母が息を呑むのと、男のもう片方の手がラドムを弾き飛ばすのは同時だった。
 流れるような動きでナイフの銀が一閃し、少年の身体は抉られる。
 
「うっ……」
 
 腹に走った熱と衝撃。
 咄嗟に押さえた右手の指の隙間から、じわりと生温かいものが溢れ出てくる。
 
「ラドッ……!」
 
 腹を裂かれた我が子を目の前にしてあげられた母の悲鳴は、しかし途中で急激に掠れる。
 閃いたナイフが、今度こそ彼女の心臓を深々と貫いたからだ。
 絶命の瞬間、それでもドイツ兵を押さえ込むようにして倒れたのは子を助けたい母の執念か。
 
 ──ラドム、早く逃げなさい。
 
 硬直した眼球にそう語られ、少年は跳ね起きた。
 痛みなんて感じない。
 両手で腹を押さえ、流れ出る液体をなるべく体内に押し戻すようにしながら部屋をよろめき出る。
 必死になって階段を上り甲板に出て、そして彼は絶句した。
 
 夜の風が潮と血の匂いを運んでくる。
 鋭い砲撃音が響き、自動小銃の連射音が止まらない。
 白煙と黒煙が絡み合うよう夜空に靡く。
 
 甲板上には凄惨な光景が広がっていた。
 ドイツ軍服を着た兵士たちが十数人、銃を手に闊歩している。
 その足元には、倍以上の数の船員達が血塗れの姿で転がっていたのだ。
 
 噎せ返る血の匂い。
 腹を襲う激痛。
 遠退く意識を懸命に現世に引き戻し、足を動かす。
 
 とにかく逃げなくては。
 でも何処へ? 狭い船内に、逃げ場なんてない。
 
 階段を上ってくる足音を背後に感じ、ラドムは咄嗟に柱の影に身を隠した。
 全身を震えが覆う。
 父を殺し、母を殺したあのドイツ兵が、今度は自分を殺しに来たんだ。




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