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聖徳太子像(唐本御影)の装束の疑問と推測

聖徳太子は日本人であれば誰でも知っている飛鳥時代の偉人である。
以前は1万円札などの肖像にもなり、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使派遣など日本の国家の礎を作ったとも言われている。
ただし、その存在と詳細は定かではなく、厩戸皇子が聖徳太子のモデルになったのでは?という説があったり、蘇我馬子自身が聖徳太子として描かれたのではないかという説まで飛び出している。

その存在自体が明確でないからなのか?その肖像画は私の専門である服飾の観点からも不審な点が多い。もちろんこの話は既に多くの研究者によっていわれていることであるが、あえて今回は取り上げてみたい。


唐本御影(聖徳太子・二王子像)宮内庁所蔵

上の肖像画は「唐本御影」といわれ、日本では一般的に「聖徳太子・二王子像」と呼ばれており、宮内庁が所蔵している。
この肖像自体が近年聖徳太子ではなく、百済の阿佐太子ではないかとも言われたりしている。しかしながらここでは仮に聖徳太子だとして、両脇描かれている王子の装束も含めて探っていきたい。

描かれている装束は丸首で全体的にゆったりとしており、両脇に裾に切れ込みが入っている。裾からは白袴(しろきはかま)いわれるズボンのようなものが除いており、腰には腰帯(こしおび)が巻かれている。靴は先が反り上がった形のもので、手には笏、頭には頭巾(ときん)と呼ばれる冠のようなものがあり、後頭部には頭巾の燕尾と呼ばれる輪のように折り曲げられた纓(えい)が見られる。

まず大きく言えることは、この肖像画の装束は飛鳥時代には存在していない。

聖徳太子が政権を掌握していた6世紀後半は朝鮮朝服輸入時代といい、国家が固まっておらず、冠位十二階による色階は定められてはいたものの、位階による衣服は大陸、特に新羅王朝に倣ったのである。

11世紀前半に書かれた私撰歴史書である「扶桑略記(ふそうりゃくき)には、「飛鳥に法興寺を建て、仏寺刹を奉安する際にも、大臣蘇我馬子をはじめとした100余人すべてが百済服を着た」と記されている。このことから6世紀末の倭人の朝服は百済の服飾であったと推測する。また603年に衣服令が発布されているが、あくまで形式的であり、百済形式の服飾からは大きく変わっていないはずである。

扶桑略記(平安時代)

さらには国宝である飛鳥時代に作られた我が国最古の刺繍ともいわれている、「天寿国繡帳」には、聖徳太子が生きた時代当時の衣服が刺繍で描かれている。

天寿国繡帳(国宝)中宮寺所蔵

以上のことから考えると聖徳太子が存在したとしたら下の写真のような装束であったと推測する。

飛鳥時代の装束(京都風俗博物館より引用)


よってこの唐本御影という肖像画の装束は極めて奈良時代初期の装束に近く、またこの肖像画が描かれた時期も奈良時代初期といわれており、さらには、藤原京時代の終末期の古墳で7世紀後半から8世紀前半に作られた高松塚古墳の壁画に描かれた女官と男子群像の装束も高句麗の朝服の形を元にしていることから、全てが合致することでこの肖像画に描かれた装束は飛鳥時代末期〜奈良時代初期の朝服であることが推測され、聖徳太子が生きていた時代とは異なることになる。

高松塚古墳壁画男子群像

歴史の記録や遺物や宝物など私たちは学校や書物、メディアなどで学習してきたことがどうしても正しいと認識されたまま記憶されてしまうが、時に様々な観点から疑ってみることで新たな発見や歴史の楽しみが増えるかもしれない。

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