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アメリカの大衆娯楽比較まとめ(映画・TV・演劇)

私はアメリカ生活が長い割には、アメリカの映画やテレビの内容に馴染めないのですが、唯一アメリカのミュージカルだけは、好きなんですよね。

いい機会なので、アメリカの代表的な大衆娯楽の3つ(映画・テレビ・ミュージカル)を比較したいと思う。

1. アメリカ映画のグローバル戦略

私がイマイチ、アメリカのハリウッド映画に乗り切れないのは、まあ肌に合わないというのが、一番の理由なのだろうが、ハリウッド映画が、現在のグローバリゼーションの大きな動きを代表しているからのような気がする。

以前ブログの記事でも論じたが、私は正直、現在の多国籍企業に見られるような大きな流れは、ある面から言えば、グローバリゼーションという仮面を被った一種のアメリカナイゼーションだと思っている。

一般のアメリカ市民が、そのことをどれだけ気が付いているかは置いておいて、アメリカの映画業界が、新作映画を作成する時は、アメリカ国内の市場だけでなく、国外の巨大なグローバル市場を意識していることは、明らかだろう。

日本でだって、歴代の映画の観客総動員数のトップは長らく、ジブリや黒澤のような日本映画ではなく、ハリウッドの大作のタイタニックだ。

それが良い事か悪い事かは置いておいて、私にとって、ハリウッド映画は、
グーグルやAmazonやAppleなど、知らず知らずのうちに、世界中の人々の生活に溶け込んだアメリカ多国籍企業と同じ匂いがする。

このようなアメリカの多国籍企業が、グローバル戦略を意識する時、
私は、アメリカの「フロンティア精神」を強く感じる。

外に膨張し続けるアメリカの普遍性への誇りを元にした「フロンティア精神」は、民主主義や資本主義社会原理を「輸出」し続ける現在のアメリカ中心のグローバリゼーションそのものの原動力ではないだろうか?

この「フロンティア精神」が「神から与えられた使命感」に燃えて、アメリカ原住民の虐殺やベトナム戦争などを引き起こしたのですが、私は個人的には、現在の「テロとの戦い」にもアメリカ原住民の虐殺の影を見る。

アメリカの「普遍的な理想」に従わない者は、すべて殺してしまえという乱暴な論理だ。

2. 米国テレビの内向きのナショナリズム

このような「フロンティア精神」溢れる映画界に比べて、アメリカのテレビ界は、往年のモンロー主義のような外に一切の興味を持たない「内向きのアメリカ」を象徴しているように思える。

そもそも、どこの国でも、基本的にテレビという媒体は、国家のナショナル・アイデンティティーを支えるのに大きな役割を果たしている。

ベネディクト・アンダーソンは、国家とは「想像の共同体」だと喝破したが、現代社会で、その「想像の共同体」を支えているものは、テレビなのだ。

私は、日本にいる時もテレビという媒体が苦手だったが、その理由を考えてみると、テレビの強い同化圧力が苦手だったように思う。

私が敏感すぎなだけなのかもしれないが、テレビを見ると、
「日本(またはアメリカ)の皆は、このように考えている」
「日本(またはアメリカ)の皆は、このようなことに興味を持って、これが人気だ」

などという様に、同調しなければいけないというプレッシャーを感じる。
日本は、もちろん同化圧力が強い社会だが、アメリカも違う面で負けていないと思う。

以前の記事で「アメリカは一つになること以外のイデオロギーを持たなかった」という一文を紹介したが、アメリカは元々雑多な移民国家だったせいか、「アメリカ」という国への忠誠心を強要する。

言わば、日本のように生まれや育ちは問わないが、
(日本では血統主義が大きな問題だから、未だに在日問題がくすぶり続けている)

アメリカの普遍的な理想に忠誠を捧げられる者は、アメリカ人になる権利があり、そうでない者は、アメリカから立ち去るべきだという考え方だ。

私は以前、アメリカのシアトルからカナダのバンクーバーまで、
国境を越えて移動したことがあるが、車で数時間の距離なのに、

アメリカでは絶えず無意識に晒されていた同化圧力が、
カナダではアメリカに比べるとそれ程感じないことに驚いたことがある。
(まあバンクーバーがアジア系の多い国際都市だということもあるかもしれないが)

3. ローカルな運動としての演劇

映画やテレビと比べると、私の中では、演劇はローカルな運動に感じる。
分かりやすく纏めると、このような感じだろうか。

映画=グローバル
テレビ=ナショナル
演劇=ローカル

私は、アメリカのミュージカルは、物凄くアメリカ的だと思う。
その良い例が、ウェストサイドストーリーだ。

このミュージカルは、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」をニューヨークのポーランド系とプエトリコ系のギャング抗争として舞台化した物だ。

アメリカらしい音楽やダンスに加えて、悲劇が嫌いなアメリカ人向けに、最後は恋人同士が結ばれて幸せになるハッピーエンドで、原作の「ロミオとジュリエット」の物語が、ほぼ跡形なくなるほど、完璧にアメリカ化している。

そもそも、難しい筋書きがなくても、歌と踊りと音楽で、雰囲気を作って、
観客を楽しませるというのが、演劇大国の英国とは一味違ったアメリカらしさだと思う。

映画とミュージカルの関係も深く、映画をミュージカルにしたり、
逆にミュージカルから映画へなったりする作品も多い。

有名なレミゼラブルやレントなどは、その代表作だろう。

ただ映画になると、巨額な資金が動き、
グローバルな販売戦略を練らなけれないけないのに比べ、
ミュージカルを始めとする演劇媒体は、もっとローカルで自由な気がする。

私は、このような勝手気儘に好き勝手にしているミュージカルの
自由な空間としての雰囲気が好きだ。

あと、テレビがナショナル・アイデンティティーを支える物として、アメリカという国の大多数の声を代表し、同化のプレッシャーを与えるのに比べ、演劇やミュージカルというのは、少数者(マイノリティー)の自己表現を許してくれる空間のように感じる。

大ヒットとなったWICKEDやRENTといったミュージカルは、
社会の大多数者(マジョリティー)とは異なった意見を表明する
少数者(マイノリティー)達に焦点を当てた作品群だ。

私はアメリカの映画やテレビには「自分は余所者の外国人で、アメリカ社会に同化しない限りは受け入れてもらえない」というような居心地の悪さを感じるが、アメリカのミュージカルでは、私のような少数者(マイノリティー)も息をつける空間を確保してくれているように感じて、とても心地よい。

アメリカ滞在中に見た大好きなミュージカルは多々あるが、
それはまた次の機会に、述べたいと思う。

興味がある方は、「ミュージカルと社会」という無料マガジンも除いてみて下さい。

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