受け売りではいけない。
「読みたいことを、書けばいい。」を読んでから読みたいことを書いているつもりであったが、気付いてしまったことがある。それは、「読みたいことを、書けばいい。」の受け売りでものを書いてしまっているということである。
「読みたいことを、書けばいい。」はたしかに、書くために必要なことが書かれていたと思うが、その書いてあることを真に受け過ぎていた。それも一部分を宗教の信仰のようにそれが絶対正義であるように捉えてしまった。「物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛」という部分である。たしかに書くことにおいて、「調べる」ことができれば、書くという作業は飛躍的に上達する気配がするが、私が書きたいことは「調べ」て書くということなのかと自問自答した。すると自問が出した答えは、「調べ」て書くことというよりは、私の中で書くには「調べ」なければならないという強迫観念に囚われてしまったのではないかというものであった。書く<「調べる」になっているではないか。そして「読みたいことを、書けばいい。」の「調べる」部分だけを切り取って、本を読解した気になっていた自分にげんなりもした。
まだ「調べ」て書こうとするのは良しとして、その「調べ」ようとすることに愛情はあっただろうか、いや全くない。やはり、「読みたいことを、書けばいい。」に書かれていることは正しいと思う。書くものについて愛情を持っていることの重要性も説いていたからだ。物書きで仕事をしているわけでもないのに、何故「調べる」ことに躍起になってしまったのだろうと自分を自分で叱りたくなる。しかし、自分で自分を傷つけると自己肯定感は下がってしまうだろうから、「調べるという呪縛から抜け出せて偉い」と自分を褒めてやりたい。と書いていると自分が気持ち悪くなり、これまた自己肯定感が下がりそうだ。そんなに自己肯定感を下げたいのか、はたまた自虐が癖になっているのか。文章を書くことで、心の中が文字として可視化できることも多々あるので、物書きでもないただの「書く人」である私は、まだ「調べ」て書かなくていいや。もし、書くことで生計を立てようとするのならば、血眼になって、全身全霊をかけて「調べ」てやるだろうが。
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