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散歩の途中 4

おでん

 新宿からひと駅の京王線初台に下り立ったのは三十年ぶりである。出張で上京し、夜の新宿のホテルでの会合が思いの外、早仕舞いしたのでつい足が向いた。
 西口もそうだが京王デパートの地下のターミナルはすっかり様子が変わっていた。飛び乗ればどれも初台に停まるはずの電車が地下を走り続け、笹塚まで連れて行かれてしまった。笹塚からまた逆戻りした。
 地下一階だったはずのホームが随分深くなりエスカレーターが付いていた。南口でまず戸惑った。小さな駅にはそもそも商店街から地下に潜る煤けた出入り口しかなかった。その南口から地上に出ると別世界だった。
 甲州街道を背に商店街を南に下がる。書店、焼き鳥屋、酒屋、クリーニング店と三十年前の名残がかすかにある。
 三十年前、この町に住んでいた。次の角を右に曲がってしばらくすると左側に木造二階の寿荘があるはずだ。正式には第二寿荘といったが、第一がどこにあったのかは知らない。
 しかしその曲がる角が分からない。見当をつけて曲がれば二ブロック目にアングラ劇団の稽古場があって次を左手に曲がればそこに佇んでいるはずだが、五階建てのマンションが二棟並ぶだけである。
 劇団の稽古場も勿論ない。木造アパートの前には小庭があって貧相な柿の木が一本あった。一階の住人は近くにあった教育大の体育学部の学生二人と自称宝石商の男、歌手志望のアングラ劇団研究生のサトミと私だった。
 私は大学の単位を取り切れず、アルバイトをしながらその日暮らしをしていた。教職課程の三科目分が足りずに、大学には週に一度顔を出せばよかった。早朝、晴海埠頭の倉庫で輸入バナナの荷役を三日続け、それで一週間食いつないだ。
 寿荘はどうやらこのマンションに姿を変えていた。六畳一間の出窓を開けると隣の大家の家との境に金木犀の生垣があり、そのきつい匂いが漂っていた。マンションの周りには何しろ土の地面というものが見えないので、寿荘を実感できるものは何ひとつなかった。
 初台の商店街に戻った。次の角を左に曲がれば、通った銭湯があるはずだ。松竹梅のどれかが付いたどこにでもありそうな名前だったが、まだあった。「梅」だった。
 梅の湯に飛び込むのは決まって閉店直前だった。日付が変わる寸前に飛び込むと、主人はノレンを取り込んだ。バイトだったり、新宿での飲みだったりしたのだが駅の階段を駆け上がり真っ直ぐに駆け込む銭湯だった。
 同じアパートの歌手志望のサトミもその口だった。自称宝石商の部屋を挟んで私は二号室、サトミは四号室。ごみ出しや寿荘入り口にあった公衆電話の取次ぎで言葉を交わしたことはあったが、歌やアングラ芝居の話をするようになったのはこの銭湯の仕舞い湯の後だった。
 なにしろ仕舞い湯は慌しい。主人はノレンを外すとズボンの裾をたくし上げてザーッと湯を流し、洗い場の掃除を始める。ボイラーの火を落とした湯船に浸かり脱衣場を抜けるのはいつも最後だった。
 そのころ銭湯を出ると商店街の角におでんの屋台が出ていた。寒い夜は、決まって立ち寄った。コップに燗酒が注がれ、味のしみ込んだ蒟蒻やスジ肉、豆腐を頼んだ。追われるように仕舞い湯を終えたサトミも濡れた髪を気にしながら、やってきた。
 おでん屋の親父は無口で愛想のひとつもなかった。親父は年寄りに見えたがまだ四十代で崩れた感じがした。狭い屋台にはアングラ劇団の公演パンフや前売り券が押しピンで留められていた。
 サトミとは顔を合わせるうちに、言葉を交わすようになった。スジ肉、ロールキャベツ、豆腐…とつつきながら何度も「同じ屋根の下のよしみ」と繰り返した。
 北海道は根室の出身、洋裁の専門学校に通い、新宿の演歌酒場のアルバイトをしている。アングラ劇団は屋台で知り合った男たちに誘われ、研究生にしてもらった。屋台でコップ酒を呑みながらサトミは喋り続けた。
 大学を留年し、アルバイトで食いつなぎ、ものを書く仕事をしたいと原稿用紙を買い求めては書き始めるのだが最初の三枚目で後が続かない日々を送っていた。歌手志望のサトミは高校生のころNHKのど自慢の補欠の一番目だったことを何度も悔しそうに話した。時間調整や急に本番に出場できない人の代役に五人ほど待機するその一番手だったらしい。
 新宿の店で時々歌っているというので歌舞伎町の路地にあるという大きな提灯の店を目当てに訪ねたら民謡酒場だった。北海道出身のオーナーらしく、壁一面にサブちゃんや畠山みどりのポスターが貼られていた。
 サトミの十八番は北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」で ♪あれは二月の 寒い夜―という歌い出しだが「なんかあたしの人生に似てんのよねえ」とコップ酒が三杯目になると決まって口ずさんだ。
 屋台を出るころは二人ともいつも足元がおぼつかなかった。寿荘まで角を三つ曲がるのだが、サトミを抱えるようにして辿りつくこともあったが、サトミは口癖の「よく言うよー、このっ」を連発しながら私を部屋に投げ込むこともあった。
 屋台があった角には新しいビルが建っていた。梅の湯だけが三十年前と変わらなかった。
 初台の駅に戻ろうとしたら、赤ちょうちんのおでん屋があった。寿荘のあった道のちょうど反対側あたり。店の灯りがほんのりとした懐かしさを漂わせていた。
 のれんには「里」とだけあった。店はカウンターだけの小店で割烹着の女が一人、鍋の加減を見ていた。扉を少し開けると「いらっしゃい。どおぞ」と湯気の中から誘った。
 丸椅子を引き寄せて座ろうしたら眼鏡が湯気で一気に曇った。
 「一杯つけますか」「じゃあ熱燗で」と返したら、湯気の向こうにサトミがいた。
 「蒟蒻とロールキャベツよね」と笑いながらいった。
 「この街、すっかり変わったな」
 「そりや、三十年だもの」
 煮込んだ蒟蒻とロールキャベツの味は終い湯の後のおでん屋の味だった。一杯目を飲み干すとサトミが「じゃ、カンパイしよか」となみなみと注いだ。
 「いろいろあったよな」
 「うん、いろいろあった」
 カンパイのあと、鍋の湯気を挟んでいろんな記憶がぐるぐると巡った。鍋の仕切られた枠にじゃが芋やはんぺんやスジ肉が行儀良くおさまっていた。箸袋に「おでんの里」とあった。そういえばサトミは里美だったことを思い出した。
 「変わらないのはサトミだけだな」といったら「よく言うよっ」と返ってきた。
 店を出ると商店街の灯りはほとんど消えていた。「元気でね」と後ろから声がした。
 三杯のコップ酒なのに足取りがおぼつかなかった。ざんげの値打ちがない、のフレーズを思い出そうとしたがどうしても最初が出てこなかった。
 通い慣れた道なのに、右へ左へ傾ぎながら歩いた。初台の駅までの道は、緩やかな坂道であることに気付いた。

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