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ガイナーレ鳥取アンソロジーVolume3(J2時代)

Volume2にエラくスキがついたので、些か面食らっていたりする。いやだって、確かに自分はガイナーレ鳥取と長年関わり続けているけど、サッカーの特にJリーグでは最も下層に位置するJ3のチームを取り上げるネタでそんなにスキがつくはずねえし・・・と思っていたのだが、こうなってみるとこんなテキストでも書き甲斐があろうってもんで。誠に有難いことです。

ということで、Volume3はJ2にいた頃のお話。但し、言っとくけれど、この最中の2012年4月上旬に、自分は脳梗塞を起こしてぶっ倒れちまって。
そのシーズンのそれまでにも試合には行ってるんだけど、写真を残していないというヘマをやらかしてるんだよね。何で写真撮ってないんだろうか。ともかく、2012年シーズンは、序盤戦は行ってるはずなんだけど、写真がないし、倒れた4月以降は試合にすらろくに行ってない。鳥取県行くの自粛してたような形(後述のように行かなかったわけではない)。
2012年の終盤になって、やっととりスタに行っているが、写真はないし、何しろ行き帰りがしんどく、大変だった。2013年はもっと試合に行ってないんだもん。

2011年

繰り返すようだけど、ここからの3年間は写真少ないんで、そのつもりで見ていただけると助かる。

で、2011年3月6日。徳島でオープニングゲームがあった。もちろん相手は徳島ヴォルティス。大塚製薬のサッカー部が前身であり、JFLでその大塚にSC鳥取は一度も勝ったことがない。勝つ前に、あちらが先に(2005年から)Jリーグに行ってしまった。

ただ、それはSC鳥取時代のことで、ガイナーレ鳥取を(少なくともリーグ戦を戦うチームとしては)知らない(但し実際には前年の天皇杯で対戦しているので、Jリーグチームとしての徳島ヴォルティスとは、全くの初対戦ではない)。

ちなみにそのカードでの選手紹介動画を発見した。

鳥取からも結構人が行ってる。確かこれ、自分は米子のマンガ喫茶に行ってテレビで(NHK徳島とNHK鳥取が中継してた)見てた記憶がある。

よく見ると、この試合、相手のメンバーに後に鳥取に在籍した倉貫一毅がいたりするし、それどころか、なんと柿谷曜一朗がいたりもする。そして、この試合の決勝点を決めたのは、その柿谷だったりする。

スコアこそ0-1だったし、シュートの数だけ見ても鳥取13対徳島11というように鳥取の方が上回ったが、その数字が示す印象とは別の意味で、相手の徳島ヴォルティスが大きな壁に思えた。

考えてみると、徳島ヴォルティスはガイナーレ鳥取がガイナーレ鳥取を名乗る前にJリーグに参入している。その時点で5シーズン近い差がついてしまっている。この差は大きい。特にJで揉まれた経験の差は、如何ともし難い。
だが、そんなことは百も承知の上でJリーグという大海原に乗り出した。腹を括ってやるしかない。徳島戦では結果は出なかったが、悲観するような内容でもないと感じた。よし、この日こそ負けたが、この感じならシーズン初勝利も近いぞ、と思った。

・・・だが、日本中を意気消沈させてしまうような、あの未曾有の大災害が起きた。

東日本大震災だ。

2011年3月11日14時46分、強い揺れと同時に何もかもを押し流すような津波とが襲いかかった。特に津波の様子はあまりにも衝撃的だった。福島第一原子力発電所でも大きな被害があった。

ともあれ、Jリーグはしばらく休まざるを得なかった。それはそうだろう。それでも、西日本にホームを構えるガイナーレ鳥取などは身動きが取りやすかったこともあり、3月中にはチャリティマッチを行っている。

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3月26日、とりぎんバードスタジアムにサンフレッチェ広島を招いてのチャリティマッチは、盛況のうちに挙行された。

この試合ではリボンバナーに、メッセージを映すことができた。

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これは自分のだけど、こんな感じのメッセージを募集していたので、自分も投稿してみた次第。良いのか悪いのかわからないが、何も言わないよりはメッセージを伝えたい、と思った。

チャリティマッチはこの試合と、翌週には愛媛県のニンジニアスタジアムで、このシーズンの開幕戦と同じ徳島ヴォルティスとの試合が行われている。

しばしの中断期間を挟み、4月下旬の第8節ギラヴァンツ北九州戦からリーグ戦が再開した。
そしてその試合には勝った。アウェイ戦(この頃はミクニワールドスタジアムなどと言うものはなく、よって本城陸上競技場での試合だった)でありながらも、これがJリーグでの初勝利となっている。

この勢いならばホームでも、と思いきや。

そのホームゲームのカターレ富山戦はスコアレスドローに終わっている。

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写真を撮ったのが試合前でしかないので、こんなのしか残ってない。この頃はまだ、ゴール裏でバリバリに応援していた時期だし。

そんな中、6月の声を聞いた頃、とうとうホームゲームでの初勝利の瞬間がやってきた。しかもこの試合を自分は観ている(その前のいくつかのホームゲームも見ているのだが)。

今頃気づいたりするのだが、この試合、京都のメンバーに、2019年シーズンに鳥取に在籍し大活躍した福村貴幸がいたりする(試合には不出場)。

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先制点の男(右側にいる実信憲明)と決勝点の男(左側にいる小井手翔太)をご覧いただこう。狙ったわけじゃないが、たまたま2人並んでいた。

更に二週間後。とりぎんバードスタジアムは大きく歓喜に包まれた。この試合のおかげで。

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自分は、今だから言うけど、この時非常に複雑な心境だった。推しチーム同士の試合なんだぜ。冷静でいられるわけがない。

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当時のこのユニの下に

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これを着込んで行った(当時の観戦仲間は全員知っていた)が、4-0だものなあ。複雑だったよ。特に田原がよぉ(以下略

でもまあ、ガイナーレ鳥取を応援するという立場で言えば、嬉しくないはずもなかった。5-0になると「夢スコア」と俗に称するけど、この試合は4-0であってもそう呼びたかった。前後半の序盤に得点できたことは大きかったと思う。

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ベルマーレはとりスタに弱い、という都市伝説的なジンクスがつき始めた。実際、2003年の天皇杯・清水エスパルス戦、2007年の天皇杯・サンフレッチェ広島戦、そしてこの試合。もっと言えば、1995年のベルマーレ平塚時代のニコスシリーズでのサンフレッチェ広島戦など。全部負けている。翌年のこのカードで1-2で勝利するまで、ベルマーレはとりスタで勝てないのではないかとさえ思ったほどだ。

そういや、この少し前のジェフ千葉戦で、この人に逢った。あだっちぃーこと足立梨花さんだ。

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出来の悪い写真で申し訳ないが、これぐらいしか残ってない。この当時の足立さんはJリーグ特命PR部マネージャーみたいな感じで活動していた。
今で言う佐藤美希さんの先代に当たる。お人形さんみたいに可愛らしい人だった。今は幅広い活動をしていると思うが、この頃はJリーグのPRマネージャーとして大車輪の活躍をしてらした頃だ。
この足立さんと写真を撮らせていただいたが、こんなむさ苦しいおっさんの頼みを嫌な顔一つせず聞いてくださった。心底嬉しかった。

このシーズンは序盤ぐらいしか写真が残ってないが、Jリーグでのファーストシーズンをひたすら満喫したかった。

FC東京がJ2にいた頃で、彼らの蝗害(?)の様子も目の当たりにした。アレはちょっと簡単に言葉にできない。あの時会った東京サポさんはその後、元気にしてるんだろうか。

ともあれ、19位でシーズンを終えた。決して順風満帆なシーズンではなかったかもしれないが、自分なりには楽しかった。

2012年

このシーズンは試合の写真はない。

そして、自分はというと・・・。

4月1日の湘南ベルマーレ戦を無事に観戦を終えた。この前々日に島根県の臨時職員の仕事をちょうど終えていた。

その後、雇用保険関係の手続きにハローワークに行った。それは予定していたことなのでいい。だが、この時に少しずつ自分に異変が起きていた。文字がエラい書きづらい。自分は字は決してうまいわけではないので、そんなに気にも留めていなかったが、イヤに字が崩れる。更に細かい枠に収めるのが難しく感じた。この時はしかし、それほど深刻に捉えていなかった。
4月8日にギラヴァンツ北九州戦があったが、その日の午前中に、SC鳥取ドリームス(ガイナーレ鳥取のファミリーチーム。現在は鳥取県社会人リーグ1部に在籍。以前に何度か中国リーグにまで上ったこともある)のサポーター有志でチャントの収録をしようとなって、その収録に行った。
それは無事に済んだが、出雲市内(既に戻ってきていた)丸亀製麺に昼飯を食いに行った時、うどんがいつもよりつかみにくく感じた。そんなことは初めて感じた。
その頃、家人から、車の運転の危なっかしさを指摘されるようになり始めるに至り、これはマズいと思い始めた。で、4月12日、島根大学医学部附属病院に自力で運転して行った。

診察を受けた後、処置台に寝そべる自分に女性の先生が言うには・・・

脳梗塞の疑いがありますね。入院してください。

予想もしない一言だった。結局、即入院となった。車を自分で運転して帰りたいと申し出たが、即刻止められた。当たり前だ。

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駐車券が無駄になった、と思った。でも、それどころじゃない。自分は大変なことになった、と思った。

入院生活についてはこの辺りに書いてる。急性期治療と、それを脱したあとのリハビリ病院での期間の、都合三ヶ月弱、病院暮らしをして、退院した。

退院後は近場であった全社予選に行くことでサッカー関係のリハビリを始めた。ただ、この時、ガチの応援はもうできないかもしれないな、と思うようになった。でも、機会があれば・・・と思っていたが、その機会は意外に早く訪れた。

このシーズンの最終節、アビスパ福岡戦に出向いた。

試合の最終盤に勝ち越して勝った。

この辺にいろいろ書いてる。このアビスパ戦で、自分としては、もう90分間全力でバモるのは無理だと薄々気づいた。悔しいけど、そんな病気をしたのは自分だし、誰も恨めない。

この前に概ねできていたチュウブYAJINスタジアムまで、湘南ベルマーレ戦のパブリックビューイングに出かけている。

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これがあったので、鳥取にも自分でクルマ転がして出向いたが、非常にしんどい思いしかしなかった。

実を言えば、シーズンが終わったあと、チュウブYAJINスタジアムにはもう一度行っている。この翌日にチュウブYAJINスタジアムの完成記念試合が挙行されるわけだが・・・

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その前日に2012年シーズンのガイナーレ鳥取感謝祭というスタジアムお披露目イベントがあり、そこに行ってきたというわけ。
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練習場及び米子での試合会場として本格運用し始めた頃である。

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この人の愛称がついたスタジアムだ。

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彼(強小戦士ガイナマン)もこの頃からいた。そして感謝祭はこんな感じだった。

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とりあえず、2012年シーズンは残留できた。

2013年

自分は障害者手帳を持つ身になり、名実ともに身体障害者となってしまったわけだが、まあしようがない。身体障害者にはなったが、等級が低くて障害者年金などというものはいただけない。当たり前だ。現状の自分みたいなのがそんなものをいただいては、罰が当たってしまう。

まあ、その辺のことは良い。

だが、当座の問題は仕事をしなければいけない。毎日必死に探したが、自分みたいなのを雇用してくれるような親切な会社はなかなかない。暗澹たる気持ちだったが、諦めるわけにはいかない。

こういう事情もあるので、試合にはなかなか行けなかった。時間もおいそれと作れないし、おカネも潤沢には使えない。行きたいのは山々だったけど、それを許さない事情もあるのだから仕方がない。病気以外では、サポーター失格だと本格的に実感したシーズンでもあったな。

やっぱり、お金を稼げないと、クソの役にも立ちゃしない。そのことをさんざん実感させられた。

でも・・・

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夏に練習試合の奈良クラブ戦に行ってきた。

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終盤戦のザスパクサツ群馬戦に行ってきている。

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雨に降られて風邪まで引く始末でさんざんな試合だった。負けなかっただけマシかも。

そして、結局シーズン最下位に終わり、入れ替え戦をする羽目になってしまった。相手はカマタマーレ讃岐。

緒戦の丸亀ラウンドをドローで乗り切ったガイナーレは、ホームゲームに一縷の望みをつなぐのだけれど・・・

この試合で、自分はたぶん、もうゴール裏で応援することはなくなるだろうなあ、と思ってた。前年最終節のアビスパ福岡戦の頃から漠然と思っていたが、やはり90分間の激闘に自分の身体がついて来ない。気力も続かない。
自分はゴール裏に立つと、不器用すぎて手が抜けない。この辺で適当にやっとけばいいや、てのができない性格なのだ。故にわりかし消耗してしまう。この試合では、それを嫌と言うほど思い知らされたし、自分が元いた立ち位置もたぶん自分の居場所ではないのかもとも思うようになっていた。
それ故に自分は応援活動のできるようなサポーターではないんだな、と思い始めていたが、それを決定的に思い知らされたように感じた。試合がああいう結果に終わって、自分の中に訪れたのは虚無感と同時に「やっと終わったんだな・・・」という安堵感にも似た心境だった。

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この試合のことは、後に同じカマタマーレ讃岐とリーグ戦で対戦した時、自分の中で強烈なモチベーションになった。

noteにこういう文章を二編も書いちゃうぐらいには、ね。そんなこんなで2019年はカマタマーレ讃岐にホーム及びアウェイでも勝ったことでリベンジできたが、それはまた別のお話。

ともあれ、ガイナーレ鳥取はJ2残留にしくじってしまい。J3という新しいリーグに属するチームとしてやっていく道しかなかった。そりゃあ、当事者としてそこにいた自分としては辛かった。
でも、自分はその事実だけを見て辛い辛いと言うよりも、今までとは違う支え方があるんじゃないかと考え始めていた。

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