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ガイナーレ鳥取アンソロジーVolume1(強小時代の前)

J3リーグはまだ始まらない。何しろこういう状態だ。

退屈でしようがないから、すぐにでも始めろ、みたいなことを言うのは論外で、COVID-19が世界的なパンデミック状態である今は、できることをしたら良いんじゃないかと思う。

そこで、自分は「ガイナーレ鳥取アンソロジー」みたいな企画をやってみることにした。
アンソロジーと言うが、正直言うと、撮った写真を適当に並べつつ、歴史をなぞるだけの企画ではある。しばしおつきあい願おう。
なお、基本的には人名は全て敬称略で記載する。

2007年

まずはガイナーレ鳥取という名前になった最初のシーズンから。

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SC鳥取という名前は、運営会社の名前となると同時に、ファミリーチームの名前(SC鳥取ドリームス)となり、このチームはガイナーレ鳥取という名前になった。

ガイナーレの愛称は、元々SC鳥取の愛称として2003年に公募により決まったもので、語源は雲伯方言(島根県出雲地方と鳥取県西部の米子西伯郡地方辺りの方言群)の「がいな」と、イタリア語の「SPERARE」(日本語に訳すと「願う」という意)との合成から取られている。

このポスターに写っている4人の選手は、左から順番に戸田賢良(背番号7・DF/FW)・実信憲明(このシーズンから背番号10・MF)・西村英樹(背番号11・MF/FW)・増本浩平(背番号22・DF/FW)だ。いずれも当時の主力選手ばかり。

戸田は湘南ベルマーレから移籍してきた大型選手で、当初はDFとしてプレーしていたが、チーム事情から、一時的に元々のポジションであるFWに戻っていた。しかし、これまたチーム事情により元のDFに再転向。在籍2シーズンで5得点をマークしているが、自分は全得点見たことがない。縁のない選手だったと言える。

実信は、現在は松江シティFCの監督に就任しているが、元々、2003年にSC鳥取に入団、小さな体躯ながら攻撃の中心選手として長らく活躍。このシーズンから背番号10となっている。そして、いつの頃からか「ミスターガイナーレ」と呼ばれるほどになった。
その後は2013年シーズン終了後の契約満了を受けて、2014年に松江シティFCに移籍している。2017年に現役を引退した後、コーチ業1本に絞り、2020年シーズンから同チームの監督に就任している。

西村は元々ガンバ大阪ユースにいた選手だが、たまたまガンバ大阪にいた高橋真一郎氏の影響から2002年にサンフレッチェ広島に入団。同年9月に実は一時的にSC鳥取に期限付き移籍している。その際、それなりに活躍したこともあって、同年11月に広島に戻ったが、出場機会もさほど得られず、2005年から再度SC鳥取に移籍した。今度は完全移籍である。
このポスターに載った2007年まで在籍している。しかし、2008年からはバンディオンセ加古川(現名はチェントクォーレハリマ)に移籍している。しかし、様々な事情で1シーズンで退団し、2009年からはかつてSC鳥取時代に同僚だった石富(佐藤)友馬のいるヴォラドール松江(松江シティFCの前身チーム)に移籍している。
なお、結局そのシーズン限りで現役選手を引退し、鳥取県立境高等学校のコーチを務めるなどしており、また佐藤のヴォラドールとしての事業をを手伝ってもいる。

増本は元々湘南ベルマーレユース出身である。本来はFWの選手だったが、高校時代にDFに転向し、東京農業大学時代にFWに再転向。SC鳥取には2005年から加入している。その初年度にJFLで14得点を挙げる活躍をし、一躍名前を売っている。在籍4シーズンで90試合に出場し、24得点をマークしている。
2009年シーズン開幕前に現役を引退。横河武蔵野FC(現・東京武蔵野シティFC)のジュニアユースコーチ、同ユース監督を歴任し、2017年からは松本山雅FCのU-15コーチ→同監督、その後同トップチームコーチにもなっている。

まあ、このシーズンは当初、このおじさんが監督だった。

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水口洋次だ。この人はヤンマークラブ監督であった他、日本のU-20代表監督だったこともあり、更に松下電器産業サッカー部(現・ガンバ大阪)の監督としても知られた。鳥取に来る前は神戸国際大学でサッカー部の監督をしていたらしい。

そんな水口はガイナーレ鳥取の初代監督であるのだが、もはや彼をそのように記憶している人も多くはないだろう。だってこの人、鳥取では1シーズンまともに監督業をやっていないのだから。何故か。2007年8月に成績不振で辞任してしまったからだ。

後任はこの左側の人。

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ヴィタヤ・ラオハクルだ。この人は水口と関係があったので来日して鳥取のコーチに就任したが、水口が成績不振で監督を辞任したことを受け、内部昇格でそのまま監督となり、2009年まで監督を務めた。
2010年も監督をするはずだったが、前年末に母国のタイで交通事故を起こしたことによる(主に肉体的な)影響で、話し合いの末に鳥取の監督を辞任している。
その後は母国タイのチョンブリ-FCでテクニカルディレクターや監督などを歴任し、今はタイ王国サッカー協会でテクニカルディレクターをしているようだ。
ヴィタヤは気の良いおっちゃんだ。鳥取の監督としてはやや運がなかった面もあるが、総じてよくやっていたのではないか。少なくとも夢は見せてくれたと思う。
母国のタイでは偉い人のはずだが、偉ぶったところがまるでない。彼と一緒にJリーグに上がりたかった気はする。もっとも、彼は日本で言うところのS級指導者ライセンスに相当するものを持っていなかったらしいので、ヴィタヤの在任中にJに参入できていたとして、彼がそのままJリーグチームとしてのガイナーレ鳥取で指揮を執れたかどうかは何とも言えない面もあるが。普通に考えた場合、無理だったろうとも思う。まあ、2010年以降に彼は監督をしていないので、あくまでも想像しかできないけれども。

2007年のガイナーレ鳥取はJFLで14位だった。監督の途中交代や、それに伴う不安定要素もあったが、チームとしての成熟度があまりにもなさ過ぎたような気がする。
この頃の鳥取はチュウブYAJINスタジアムや併設の養和会YAJINフィールドのような自前の練習施設を有しておらず、米子近在や鳥取市近郊などを転々としていた。
試合会場にしても同じで、とりぎんバードスタジアムと米子市営東山公園陸上競技場がメインで、時折、鳥取県立布勢運動公園陸上競技場が使われることがあった。布勢は、とりスタのスコアボードがオーロラヴィジョン化されるまでは、その種の掲示板を持つ県内唯一のスタジアムだった。

東山

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とりスタ

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布勢

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2008年

ただまあ、どちらにしろ、この成績ではJリーグもへったくれもないので、ヴィタヤはそのまま残留させ、チームの陣容を大きく強化する方向に出た。外国籍選手を積極的に獲得したり、大物選手を呼んできたりなどだ。

外国籍選手だと、コン・ハメドだとか、アドゥール・ラッソなどがやってきたし、大物選手では、小村徳男が来た。
ハメドはこの後も数シーズン残ったが、アドゥールと小村はこのシーズン限りで退団し、特に小村は現役選手としての幕を閉じてもいる。もっとも、この数シーズン後に、鳥取に監督として帰ってくるわけだが、それはまた別のお話。

ハメド

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アドゥール

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小村徳男

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このシーズンは親善試合ということで、小村の古巣である横浜FCと10月に試合をやっていたりする。

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なんと、試合には勝ってしまった。ビックリした。

開幕当初は勝利を挙げたりするも、故障者も多くなかなか調子が上がらずに苦戦する羽目となったが、途中からどうにか盛り返し、終盤の時点ではJFL4位以内が視野に入りつつあった。
そして最終節に龍ケ崎で流通経済大学とのアウェイ戦に臨んでいるのだが、この試合を敗れてしまい、JFL4位以内の達成はならなかった。
この結果をガイナーレ的には「龍ケ崎の悲劇」と呼ぶわけだが、ビッグシップであったパブリックビューイングに出向いた自分は、最初、何が起きたのかわからなかった。だが、敗戦の現実が否応なく襲いかかってきて、ようやく認識した。
ただただ、悲しかった。気分はとても重かった。ビッグシップになど行かなければ良かったとさえ思った。だが、その現実は受け止めなければ。
結局、いろいろな意味でチームとしての完成度が低かったが故に、最終的には目標とする成績に届かなかった。それ以外の何物でもない。

そういえば、この試合の終了後、龍ケ崎で火事騒ぎが起きていたらしい。燃えるならピッチの上で燃えてくれよ、とも思ったが、今更そんなことを言っても仕方がない。

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自分としては2008年シーズンは随分たくさんのアウェイ戦に出向いている。北九州戦@本城、岡山戦@桃スタ、佐川印刷戦@太陽ヶ丘、三菱水島戦@笠岡と、4ヶ所も出向いている。こんなのはこのシーズンだけだ。
この中で最も痛快だったのは、ファジアーノ岡山戦@桃スタだろう。0-0のジリジリした展開だが、岡山が優勢に試合を進めていた。しかし、最後に笑ったのは鳥取だった。

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いろんな意味で、ミラクルの感じられる試合ではあった。こういう試合は、また何処かで経験できれば良いのにな。

ともあれ、強小〇年を名乗る前の時代、ガイナーレ鳥取は上昇しようと必死にもがき続けていた。無論、全ての試みが成功したとは言えず、小村の獲得もうまくいったのかどうかは何とも言えないが、小村がしてきた経験の一端がチームに波及することで、終盤に向けての追い上げの素地になったであろうことは想像に難くなく、彼の加入はマイナスではなかった。そして小村を受け入れた経験が、この先の、例えば岡野雅行や服部年宏などを受け入れる下地にもなっていくけど、それはまた別の話だ。

そんなわけで、2007年・2008年シーズンを振り返ってみた。こんな感じで、これからしばらく振り返り企画みたいなのをやる予定だ。いろいろツッコミはあるだろうが、まあ、内容の乏しさは筆者がノータリンなのが悪いので、とりあえずは笑ってお許し願えればいいかな、と思う。

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