依存する事は悪くないという話
僕は、少し前まで、依存するという事は「悪」だと思っていました。
結局人間最後には1人になるのだし、依存しているものがなくなった時に1人で生きて聞けないのなら問題だと思っていたのです。
だから自分は1人になっても生きていけるように力をつけなくてはいけない。自立する事こそが正しい事なんだ。
そう考えて、ずっと行動してきました。
セラピストとして生きていきたいから全力で知識・技術の研鑽は行ってきました。
1人の力でなんでもすべきだと考えて、チームで動く事、仲間と問題を解決する事をひたすらに避けてきました。
とにかく自分1人の力でなんでもできる事が大事だ、美徳なんだと思いここまで頑張ってきたのです。
なので少し考えが変わったり、自分と同じような考えを持っていない人とは距離を置くようになりました。
「この人は考えが合わなくなってしまった」「もう自分とは合わないな」と勝手に思いながら。
その結果、自分の周囲に親しい人がいなくなり、自分1人でなんとかしようとするけどカラ回ってしまっている自分がいました。
自立したいけどやり方が分からず、1人で色々突っ走ってしまい結果失敗する。その繰り返しを経験して、何もできない自分の無力さを痛感する羽目になりました。
このような経験から、最近ようやく、依存する事が悪い事ではないと実感する事ができるようになりました。
依存という安心感から生まれるもの
依存という言葉で書くとあまり良い印象を持てないかもしれません。要は「頼る事ができる」「安心感を得られる場所」という事だと僕は定義しています。
自分が何かに挑戦する時。新しい環境に行く時。その時に頼れるものや安心できるものがなければうまく行動する事ができません。
例えば言葉の知らない外国に行った時、全然コミニュケーションが取れないと困惑してしまいますが、例えば通訳や現地のコーディネーターといった頼れる存在がいれば安心して行動を起こす事ができます。
他にも自転車を運転するとして、補助輪という頼る環境があった方が、何もない時よりも恐怖感が少ない状態で練習を行う事ができます。
このように考えると、僕たちは頼るものがあるという安心感を得られるからこそ新しい事に挑戦しやすくなるのです。
大事なのは依存の程度とバランスです。翻訳者に頼っていてはいつまでも外国語で話す事はできないでしょうし、補助輪をつけたままではずっと自転車に乗れません。
依存しすぎず、かといって1人でなんでも頑張ろうとしすぎず。その時その時のタイミングで依存と自立を使い分けることの方が大事だと僕は考えています。
昔の日本から学ぶ依存と自立
昔の日本の生活は、正しく依存と自立のちょうど良い関係性を体現してたのではないかと考えます。
昔の日本は長屋文化でした。
長屋は現在のプライバシーのしっかりとしている住宅とは違い、一棟を薄い壁で区切っている住宅になります。
なので今ほどプライバシーは保たれていませんし、井戸やトイレは共同の方が多かったとのことです。
ただ、プライバシーが保たれないが故に、周囲での困ったことに対しての助けあいは常に怒っていたとのことです。
人に依存する所は身を委ねつつ、自分が動いて人をサポートする…。まさしく依存と自立が程よく混ざり合った環境なのではないかと思います。
現代のコミュニティでも、自分のできないところは人に頼り、自分ができる事は自分で行い、人に頼られる…。こういった相互での関わりが非常に大事になってくるのではないかと、最近では考えています。
自分の安心できる場所、頼れる場所を大切に
このように、依存する場所をしっかりと作っておく事はすごく大事になりなます。
決して依存だけするのではなく、相互に依存し、自立し合う環境が大事なのです。
例えば僕の周りだと、依存できる場所が家庭だし、自分の信頼できる仲間になります。
そもそも家庭に安心感を持てないと、自分はなぜここにいるんだと非常に不安定になります。(実体験です)
なので、安心感を得られる、自分のベースである人や場所を大切にする事。自分が依存する事はもちろん、相手にも自ら働き掛けられる環境を作る事。
その環境を作る事がすごく大事だとようやく思えるようになりました。
本当に1人で闇雲に頑張っていても、支えがなければ本当に苦しいだけです。
だからこそ、支えあいながら共に成長できる家族や仲間を大切にするべきだと、僕は考えています。
今一度、自分が安心できる環境があるのか、今一度感じてみてほしいです。
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