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ナッジとかいう誘導への違和感

ここ数年巷で話題の「ナッジ」。マーケティングと何が違うの?気づかずして誘導するのはフェアじゃなくない?

数年前から「ナッジ」という用語を目にすることがしばしばあり、かなり人口に膾炙した用語のように思う。「ひじで軽く突く」という意味で、それとなく誘導しこちらの意図する選択を促すための方法論としてウケている。ひとつひとつの事例が小話的に面白いという単純な理由もあるのかもしれない。例えば男子小便器のハエが有名で、小便器にハエのシールを貼ると、一歩前に出て清潔に利用する人が増えるらしい。

最近リカレントに対するナッジを考える機会があり、主体的にナッジを設計する必要があった。しかしながら前々からナッジに対しておぼろげな違和感を持ちつづけており、違和感の解消なしに「ナッジって良いですよ!」と宣伝するのは危険ではなかろうかと考えていたところ、問題意識ドンピシャリの以下の本を見つけたので、本書を参照しつつ違和感の正体を考えてみた。

那須耕介・橋本努 編,2020,『ナッジ!? ー 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b510211.html

本書は法哲学・社会哲学を専門とする2人による編著で、8人によるナッジ関連の論考が収められている。体系だってはいないもののナッジ・行動経済学を取り巻く理論(ナッジ・二重過程論・アーキテクチャ等)、民主政・熟議等の応用的な状況からの再考、ナッジを思想的に支えるリバタリアニズムとパターナリズムが記されている(個人的には最後のリバタリアン・パターナリズム論が思考の整理になりとてもよかった)。イデオロギーと実践とが乗り入れた分野だけに、編著で多角的な論考が記されている点がむしろ良い方向に出ている良書のように思う。

違和感の所在

違和感を持つ時というのは、何に違和感を持っているのかしばしば判然としない。今回の目的はこの違和感を明瞭にすることにある。

そもそもどこに違和感をおぼえたのかというと、ナッジする側に騙されているのではないかという素朴な懐疑である。受診率の低い健康診断を受信してもらうためにはがきの記載方法を工夫するとか、環境に良い行動をしてもらうためにゴミ箱の記載方法を工夫するとか、ナッジに関心を持つのはたいていHowについてで、「こんな方法を取るとナッジできますよ」という宣伝文句で囁かれる。しかし、どんなにうまくナッジできたとしても「それやってもよいのか?」と違和感を持った。より直截に言うと「相手を騙して、本人の選択を誘導して自分の思う通りにしようとしてませんか」と思われた。

そもそもナッジ提唱者はどんな事を考えてナッジを推奨しているのだろうか。キーワードとして以下3つの概念を紹介しておく。

ナッジ

ナッジを以下のように定義している「いかなる選択肢も禁止することなく、人々の経済的インセンティブを大きく変更することなく、人びとの行動を予測可能な仕方で変更するあらゆる側面の選択アーキテクチャ」(Thaler and Sunstein 2008『実践行動経済学』に書いてあるらしい)

考えれば考えるほど巧妙な定義である。行動経済学的には、バイアス等の問題で理論的に想定される合理的行動と異なる行動をしている場合、実用的にバイアス・コストを取っ払い(ナッジして)、理論的(合理的)行動を促すものとしてナッジを位置づけている。

二重過程論

人間は物事の判断時に反射的な判断をするシステム1と、熟慮に基づく判断をするシステム2があり状況に応じてシステムを使い分けているという心理学における理論の模様(Kahneman 2011『ファスト&スロー』 に書いてあるらしい)。本来合理的な判断をすべきところ、システム1では様々なバイアス等が働きシステム2とは異なる挙動をするため、ナッジは主に反射的なシステム1にはたらきかけ(28p)補正してあげることで、本人に利益のある行動へ促す。

リバタリアン・パターナリズム

リバタリアニズムとパターナリズムの2つの思想のメタモルフォーゼ。簡単に言うとリバタリアンは本人の自由を何より重視する思想。パターナリズムは他者におせっかいをやいて良い方向へ誘導する思想。ナッジ論者にとっては、本来の自由さを失わせているシステム1の要素を取り払うことで「自由」を担保し、「よりよい結果に向けて誘導づける」という意味で、サンスティン自身もリバタリアン・パターナリズムを掲げているらしい。(先の本では7章でリバタリアン、8章でパターナリズムを詳細に扱っているのでそちらを参照)


ではこれらのキーワードを踏まえて。


1.違和感を持ったものは多分ナッジじゃない

私が「問題じゃない?」と思ったのは、熟考したら選ばない方向へナッジという表面的な方法で誘導する場合である。本当はいらないのに「298円」と書かれることで「安い!」と余分な物を購入してしまうとか、「みなさんご購入しています!」と伝えられ怪しげな商品を買ってしまう等のマーケティング的側面である。

ナッジ自体十分体系化されているわけではなさそうなので、人によりスコープは異なるだろうが、おそらく上記の場合はナッジではないのだろう。(少なくとも想定している基本的なケースではない)と理解した。行動経済学者がナッジという場合、熟慮(システム2作動)の結果到達するある種の正解に対して、反射的行動(システム1作動)の間違いを是正することを意図している。おそらく思ったよりもナッジのスコープはやや狭い。

下の図のような形で理解してみよう。システム1でも2でも選択が同じ場合はどちらのシステムが作動しても特に問題はない。問題となるのは両者の選択がずれる場合で、①反射的には選択しないが合理的には選択する場合(勉強とか、禁煙とか…?)、②合理的には選択しないが反射的に選択する場合(先の298円等)の2つ。①の場合はシステム1が作動してしまうせいで本来選択すべき合理的な選択が阻まれているため、システム1のバイアスやコストを取っ払うことで合理的な選択を促すナッジが必要。②の場合は、本人のシステム2からしたら非選択なものを人間工学的誘導により、秘密裏に選択させることになる。この②に問題があるのではないかと思っていたのだが、おそらくこれはナッジではなさそうだ

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2.ナッジが適用されるテーマ

もちろん、熟慮による合理的な選択は人により異なるため、その意味でいうと、ナッジの対象もほとんどの人が合理的と考えかつ望ましいとされている行為に限定されることになるだろう。

例えば、
・男子用トイレの小便をこぼさない
・健康行動(禁煙する、健康診断を受信する)

しかし、よさみがグレーになってくると、「それは誘導ではないか」という疑問が挟まれることになる。例えば、「オーガニック野菜を購入してもらう」ナッジはグレー(健康に良いので 、きっと…)、「スナック菓子を購入してもらう」はアウト。私が考えていた、リカレント(学び直し)を促進するというのは比較的OKな気がするけれども、政策アジェンダになるものでも十分合意を取れないようなグレーなものは多分にあるように思われる。

どんなナッジにするのかという how を考える以前に問題設定が公正かというのは一考の余地があるだろう。


3.ナッジからは逃げられない

しかしながらナッジが流行したのも、徹底した実践性が大きな理由だろう。おそらくこれを読まれている方にも、何らかの商品を売るため等のハウツーとしてナッジに興味を持ったり知ったりした方がいるのではないだろうか。ナッジを提唱し始めたサンスティンや行動経済学者の意図と異なるとしても、ハウツー的魅力は様々な形で利用されうる(例えば薬物取得にコミットメントを設ければより辞められないだろう)。今回読んだ本でもこの点について、まえがきから論じられていたのがおもしろかった。

ここで言うナッジは、先の限定されたものではなくより幅広くシステム1に作用するものと捉えたほうが良かろうが、日常の中にはあらゆるナッジが潜んでいる。そのため、良いナッジだけを利用していくというのは不可能だというわけだ。本文では「ナッジという道具の欠点を十分にわかったうえで、その実害を防ぎ、メリットを活かす道を探る」(7p)ことが必要だと述べられている。

大なり小なりナッジされ、ナッジする日常の中にナッジのノウハウをうまく取り入れているべきだということだろう。そこで必要なのは以下の2つのように思われる。

1)人間行動への作用をより明らかにしていくこと(ナッジの彫琢)
(2)ナッジを適応する問題に可能な限り注意を払うこと(相手を騙して不利益を与えない)

より込み入った問題としては、ナッジの効きやすい人、効きにくい人がいてアプローチすべき人に到達できない場合もあるだろう(「PS5が売り切れています、応募を辞めてください」とすると需要は増すだろうが、転売目的の感度の高い人が購入に走り本当に買いたい人は買えないかもしれない)。

また、ナッジはRCT的に検証するため、最大多数の最大幸福を良しとしやすいように思われる。量的には行為者を増やせても必要な人に到達しない場合は必ずしも望ましくないだろう。

ナッジをうまく利用するためには、その場その場での技巧的な実践が求められる。

余談 ナッジが効果的な場合

以前「ナッジはどのような場合に効果的に活用できるのか」と行動経済学の第一人者に質問したことがある。その際は、「経済学理論的観点から行うべき行為と実態に乖離があり、その乖離がバイアスやちょっとしたコストにより発生している場合。言い換えるなら、最後のひと押し。」とお教えいただいた。制度上の問題やインセンティブが大きく異なる場合は有効ではないらしい(例えば、リカレントで司法試験を受験してもらおうと思っても、コストが大きすぎてはがきの書きぶりだけでは多くの人の行動を変えることは難しい)。

あとがき

今回、ナッジを少し考えるにあたり、ナッジの思想的背景にリバタリアンパターナリズムがあるということを知れたのが最も大きな発見であった。社会学出身であることもあり、入り口において社会工学的なものに少し批判的な見方をしてしまう。こと政策等での活用が進む中、意図的な介入することに対する危うさには常に敏感でありたい。

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