逆境の意味
怪我の功名、回り道の出会い、負けて勝つ。
無駄や失敗にも、実は意味があるということを教えてくれる言葉が多いのはなぜだろうか。
日の当たらない場所や見向きもされない時々が
それゆえに価値があることを
私たちは知っていたからではないのか。
栄光と挫折は、ある明確な一線を境にして
左右に峻別できるものではない。
どこかでつながっていて、知らず知らずのうちに何度も両方を行き来しながら、私たちは長い人生を生きている。
滝壺に落ちたら、もがいてはいけない。
川底に足が着くまで待たねばならない。
息を吐き切って、ぐっと身体を縮め、力強く蹴り上がるための力を蓄えることだ。
曲なれば則ち全く:曲がっているからこそ全うできる
枉(おう)なれば則ち直し:曲がっているからこそ真っ直ぐになれる
窪(わ)なれば則ち盈(み)ち:窪んでいるからこそ満ちることができる
敝(へい)なれば則ち新なり:破れているからこそ新しくできる
一(いつ):いわゆる「道」のことだとされる。ここでは、「曲」と「全」のような対立を含み持ち、それらを平衡させるバランス感覚があることを示唆する。
式(しき):手本の意味
冒頭で列挙している格言風の対比が印象的な章である。
最初の五つ「曲、枉、窪、敝、少」というのは、失敗や無駄等、一般的に欠点とされている事々を象徴する言葉である。
それを受けて続く「全く、直し、盈つ、親なり、得る」という表現で、欠点がプラスに働くこともある、という逆説を展開している。
六つめの「多なれば惑ふ」は、それまでの五つとは逆の言い方で、一見するとよいことでも、それが悩みのもとになる、ということだが、言わんとしているところは同じであろう。
マイナスとされることが、実はプラスに転ずることがあること。
負とされる存在が、見方を変えれば正に変わること。
それを可能にするのが「道」のバランス感覚であり、手本とする生き方である、と喝破しているのである。
考えてみると、私達は、同じような趣旨の格言や言い回しをよく使うことに気づく。
無駄の効用、失敗の価値を、自分に言い聞かせるように、何度も噛みしめるようにして長い道のりを歩むことが人生であることを誰もが知っているのである。
「言い聞かせる」「噛みしめる」という表現を使ったのは、私達の本能的欲求・願望のベクトルは、逆に向いているからである。
誰だって陽の当たる道を歩きたい、他者から誉められ、評価されたい。明るく笑顔で過ごしたい。
しかし、時には、その逆を強いられる場面、時間もある。いや、むしろそういう場面、時間の方が多いのかもしれない。
だとするならば、挫折や不遇、失意の時をどう過ごすのか、どう受け止めるのかに人生の意味があるのではないか、そんな思いを込めて書いた創詩である。
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