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無用の要

ホワイトスペースを巧みに使うことが、デザインである。
一拍の間があってこそ、聴衆は耳を澄ます。
沈黙の一瞬を経て、至極の会話は生まれる。
一席の空きがあるから、そこに誰かの居場所ができる。
孤独な日々が、人間を強くする。

空白の力、無言の力、無駄の力
それを恐れるな。
どっぷりと浸ってみろ。
そして使いこなせ。

三十の輻(ふく)は一轂(こく)を共にす。其の無に當(あた)りて車の用有り。埴(ち)を埏(せん)して以て器を為(つく)る。其の無に當りて器の用有り。戸牖(こよう)を鑿(うが)ちて以て室を為る。其の無に當りて室の用有り。故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。 

『老子』(無用第十一)

輻(ふく):車輪のスポークのこと。古代中国では輻は三十と決まっていた。  
轂(こく):車輪の車軸 
埴(ち):粘土
埏(せん)す:捏ねる  
戸牖(こよう):部屋の戸、窓のこと

車には車輪がなくてはならない。そして車輪には三十本の輻がなくてはならない。さらに輻には中央にある轂(車軸)がなくてはならない。一見無用なものに見える轂こそがなくてはならないものだ。
粘土を捏ねて器をつくる。よくよく見れば、器とは真ん中の空間という、一見無用なものがあって初めて器の用がある。
戸や窓があって初めて室になる。無用としてそれらを塞いでしまったら室にならない。
利をもたらしてくれるものは、必ずその陰に無用とも思える隠れた働きや効用というものがあるのだ。むしろそれこそが主役なのだ。

『老子 道徳経講義』田口佳史 抜粋

【解説】
「無為の思想」の発展形として「無用の要」を説いた章である。
「埴(ち)を埏(せん)して以て器を為る」という部分は、椀状の容器は、真ん中が空であるからこそ、器としての機能を充たせるということを言っている。何もない部分があるからこそ意味をなす、これが「無用の要」である。

あらゆるものは、一見無用と思えるような部分に見えないところで支えられている、というメッセージは、日本人にしっくりとくる。

「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」

という藤原定家の歌や、水墨画の最高傑作と言われる長谷川等伯の『松林図』に見られる日本的な美意識の世界にも通底するものだ。

ビジネスの世界では、グローバルスタンダードという掛け声のもと、「わかりやすい説明」「目に見える成果」が重視されるようになって久しいが、近年では、その風潮に疑義を提起する人も増えてきたように思う。

デザインの世界でも、その巧拙は「ホワイトスペース」の使い方で決まる、という話を聞いたことがある。これも「無用の要」であろう。

「人間の生き方・暮らし方」でも同じことが言えるだろう。
何をするわけでもない、ゆったりとした時間、何も語らずに見つめ合っている関係。そういった、一見無駄に見えるものに私達が心惹かれる理由に、深く思いを致すべきではないだろうか。

「癒やし」という言葉で済ませずに、もう一歩突っ込んで考えてみたいものである。

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