大いなるものへの憧憬

夜空に輝く星々をつぶさに見つめても
それが動いていることはわからない。

ぽとぽとと落ちる水滴に目をこらしたところで
それがほんの少しずつ岩を穿ちていることは気づかない。

人間の観察力は
その微差を捉えることはできないのだ。

いつまでも変わらぬように見えるものが
実は絶え間なく動いていることに気づいた時
私は自分の無力さを感じる。

そして同時に、大いなるものの力を見いだす。

古(いにしえ)の善(よ)く士たる者は、微妙玄通(げんつう)、深くして識(し)る可からず。夫れ唯識る可からず。故に強ひて之が容(かたち)を為せば、輿(よ)として冬川を渉(わた)るが若く、猶(ゆう)として四隣を畏るるが若く、儼(げん)として其れ客たるが若く、渙(かん)として氷の将に釋(と)けんとするが若く、敦(とん)として其れ朴の若く、曠(こう)として其れ谷の若く、渾(こん)として其れ濁れるが若し。孰(たれ)か能く濁るも以て之を静にして徐(おもむろ)に清まさん。孰か能く安んじて以て久しくし之を動かして徐(おもむろ)に生ぜん。此の道を保つ者は、盈(み)つるを欲せず。夫れ唯盈たず。故に能く蔽(やぶ)るるも復(また)成すなり。  
『老子』(顯徳第十五)

微妙玄通(びみょうげんつう):微妙は、あまりに奥深くて見ようとしてもよく見えないことを意味し、玄通は、あらゆることに通じていることをいう。
輿(よ):ぐずぐずしていること    
猶(ゆう):警戒して慎重になること
儼(げん):威厳あるさま   
渙(かん):固まったものが砕けて散りぢりになること
敦(とん):純朴、篤実なさま   
曠(こう):広大なさま

真に善く出来た人物、立派なリーダーというものは、言葉などでは決して言い表せない。何故か。その全体像、全人格は微妙で、まるで「道」を人間にしたように奥深く、とても一般の常識ではすべてを見通すことが出来ないのだ。
その凄さをこと細かく知ることは出来ないが、あえて言葉にして条件を言い表せば、次のようになる。
冬に凍りついた川を渡る時のように何事につけ、一歩一歩歩む慎重さ。
常に周囲に対してこれを恐れるかのような用心深さ。
威厳に充ちた堂々とした風格。
冬の氷も溶け出すくらいの温和さ。
外見や見てくれではなく飾り気のない純朴な人柄
何事も受け入れられる度量の広さ。
清いものだけでなく、時に濁ったものも受け止めることができる受容の広さ。
立派な人物は、いくら社会の濁った部分を取り扱っても、いつしかそれが澄んでくる。宙の根源「道」の精神は、全てにおいて充分や満点を望まない。それが終わりになるからだ。常に足らない部分を見つめているから、破れた状態でも、それが当たり前と思って修復することができるのだ。
『老子道徳経講義』田口佳史 抜粋

「士」という言葉は中国古典によく出てくるが、現代の文脈に擬えれば、リーダーと解すのがよいようだ。従って、この章はリーダーの条件を縷々述べていることになる。

大人(たいじん)という言葉があり、徳があり、物事に同じない度量の大きな人物のことを言うが、それとよく似ている。訳には、そんなリーダーの条件が具体的に列挙されている。

私は、もう一歩思考を進めて、理想的リーダーが持つ大きさ、広さ、静かな力強さのようなものに、私達がなぜ惹かれるのかを考えてみたい。

それは、人智を越えた大いなるものへの憧憬と言ってもよいかもしれない。
私達が、リーダー像に抱く願望には、大いなる力への畏敬のようなものがあるのではないだろうか。
残念なことに、そういうリーダーは実際には存在しない。
否、存在していたとしても、リーダーにはなれない。それが現実ではある。だからこそ余計に夢見る。そんなものかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?