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広く、遠く、遍く

陽光は善人にも悪人にも
分け隔てなくふりそそぐ。

雨粒は富める者にも貧する者にも
分け隔てなくふりそそぐ。

一方で
人は目の前のことばかり考えてあくせくする。

誰が偉いか、何が得か、何処が心地よいか・・・

百年後に誰の名が残るのか
何が尊ばれるのか
何処に人が集まるのか
答えは誰にもわからない。

訳知り顔で未来を語るのを止めて
あらゆる可能性に心を開いてみよう。

天地不仁、万物を以て芻(すう)狗(く)と為す。聖人不仁、百姓を以て芻狗と為す。天地の間、それ猶ほ槖籥(たくやく)のごときか。虚にして屈(つ)きず、動いて愈々(いよいよ)出づ。多言はしばしば窮す。中(ちゅう)を守るに如かず。  

『老子』(虚用第五)

芻狗(すうく):祭り用の草で編んだ犬人形
百姓(ひゃくせい):あらゆる姓の人、つまりどんな人にとっても、という意
槖籥(たくやく):ふいご
中(ちゅう):沖の借字として「虚」の意味に取る解釈もある

天地には特別な愛情がない。あらゆる物を祭礼用の藁人形のように見なし、役目が済んだら捨ててしまう。聖人も同様に、誰に対しても好き嫌いで依怙贔屓することはない。役目を果たすだけの存在とみる。
道の働きは、鞴(ふいご)が風を吹き出し続けるように次々と万物を産み出し続けている。空っぽだからこそ尽きることがなく、精力的な活動の源泉になっている。口数が多いと、往々にして自分を危うい状態に陥れるものだ。心を空っぽに保つことがよい。

『老子道徳経講義』田口佳史 抜粋

芻狗(すうく)というのは、お祭りの際に造る藁の犬人形のことで、祭りが終われば捨てられる、はかない存在である。
天地や聖人は、仁愛に満ちた存在ではなく、あらゆる対象を藁人形のように見なしている、という一文から始まっている。
人間を藁人形のように見なす、という表現に冷徹な印象を受けるかもしれないが、これは老子特有の逆説的な比喩だと考えるべきではないだろうか。

私は、この章句をリーダー論として考えたい。
「不仁」という表現が何度か出てくるが、仁がない、とうことではなく、感情やしがらみに左右されず、偏り、依怙贔屓のないニュートラルな存在と捉えると、求められるリーダー像と一致する。

芻狗という比喩には、あらゆるものを役割を持った存在として扱う、という意味が込められているように思う。

ただし、どんな人も、いつかは役割から離れなければならない。どんな人にも終わりは来る。大切なのは、いつか来る終わりを恐れ、嘆くことではない。いま、この時自分が果たすべき役割は何かを、柔軟な思考で突き詰めることだと思う。

鞴(ふいご)というのは、ダイナミズムの象徴のように思える。
鞴からの風を受けて真っ赤な鉄が産み出されるように、あらゆるものが変化しうる。つまり誰もが可能性を秘めた存在であることを教えているのかもしれない。

所詮、人の判断はいい加減なものである。そんなあやふやなものに振り回されて一喜一憂することは、つまらないことだ

たとえ今は燻ぶっている人も、鞴の風を受ければ真っ赤に燃え盛るかもしれない。可能性に心を開くというのはそういうことだと思う。

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