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達人の領域

ほんとうに嬉しい時、喜びは言葉にならない
心の底からつらい時、哀しみは言葉にならない
真理は言葉にできない。

人間にも同じようなところがある。
どこがいいと具体的には言えないけれども
周囲から頼りにされ
その期待に応える人がいる。

何をしているかよく分からないけれど
知らないうちに
やるべきことをやっている人がいる。

上に立って引っ張るようなタイプではない
かといって、ただ従うだけの人でもない
いなくなってはじめて気づく
不思議な存在感のある人がいる。

彼らの非凡さは言葉にできない
宮沢賢治があこがれたのは
そういう人であったのかもしれない。

知者は言はず、言ふ者は知らず。其の兌(あな)を塞ぎ、其の門を閉ぢ、其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き、其の光を和げ、其の塵に同ず。是を玄同(げんどう)と謂ふ。故に得て親しむ可からず、亦得て疏(うと)んず可からず。得て利す可からず、亦得て害す可からず。得て貴くす可からず、亦得て賤(いや)しくす可からず。故に天下の貴と爲る。  
『老子』(玄徳第五十六)

兌(あな):目口鼻といった感覚器官の穴のこと
門(もん):‥欲望は生じる心の門の意
紛(ふん):知恵によって起こる煩わしさのこと
玄同(げんどう):測り知れないほど奥深いところで道と一体になっていること

本当の知者とはもの言わず、もの言う人は本当の知者ではない。
(本当の知者は)欲望が呼び起こされる目や耳などの穴を塞ぎ、欲望が生じる心の門を閉ざす。知恵の鋭さを弱め、知恵によって起こる煩わしさを解きほぐす。知恵の光を和らげ、世の人々に同化する。これを「道」に同化するという。
こうして暮らしている人とは、妙に馴れ馴れしくもできないし、かといって疎んずることもできない。何か利用してやろうということもできず、かといって気概を加えることもできない。目上に置いて立てることもできず、かといって目下に置いて馬鹿にすることもできない。
この世の中で、最も扱い難い人になるから、自分を保っていられるのだ。
『老子』蜂屋邦夫訳注(岩波文庫)と『老子道徳経講義』田口佳史を統合して作成

最初の二行は、知恵者というのは「玄」である、という大意であろう。
「玄」というのは暗い、黒いという意味である。田口先生は「玄人(くろうと)」をして、目に見えないもの見ることが出来る人、だと説明される。けだし名訳である。達人というのはそういうものである。

「玄同」というのは、言葉にできない、表現できない、一見しただけではうかがい知ることができない、深淵な達人の領域という意味であろう。

さて、この文章は、「故に得て親しむ可からず‥」のところからトーンが変わり、宮沢賢治の有名な詩を想起させるように思う。
賢治が「そんな人に私はなりたい」と言った人とは、どんな人か、言葉にならない達人の領域をあえて言葉にしてみた。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ
[雨ニモマケズ] 宮澤賢治


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