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「絶対」の不確かさ

ある日を境に正悪が逆転することがある。
正として尊ばれていたものが悪に変わり
悪として忌み嫌われていたものが正に転ずる。

日本人は1945年8月15日にそれを体験した。
先人の体験がもたらす教訓は
「絶対」の不確かさである。

正と悪は表裏一体
基準ひとつでオセロのようにひっくり返る。

ではどうすればよいか
正であれ、悪であれ
眼前にある事象に惑わされず
広い視野で全体を捉えることであろう。

思いめぐらすべきは、個別の要素ではなく
全体そのものである。

其の政(せい)悶悶(もんもん)たれば、其の民は醇(じゅん)醇(じゅん)たり。其の政察察(さつさつ)たれば、其の民は缺缺(けつけつ)たり。禍は福の倚(よ)る所、福は禍の伏す所なり。孰(たれ)か其の極を知らんや。其れ正無し。正も復(また)奇(き)と為り、善も復(また)訞(よう)と為る。人の迷へること、其の日固(まこと)に久し。是を以て聖人は、方(ほう)して割(かつ)せず、廉(れん)して害せず、直(ちょく)にすれども肆(し)せず、光あれども曜(かがや)かさず。
『老子』 (順化第五十八) 

悶悶(もんもん):寛容で大まか 
醇醇(じゅんじゅん):飾り気がなく素朴
察察(さつさつ):細かなことまで吟味する 
缺缺(けつけつ): 狡猾の意
倚(よ)る:寄る 伏(ふく)す:ひそむ
方(ほう)して割(かつ)せず:四角で分割できないの意
廉(れん)して害せず:刃物のような鋭さで人を傷つけることはない、の意
肆(し):気持ちのままふるまうこと

政治が寛容で大まかであると、民は純朴になる。
政治が細かなことまで吟味すると、民は狡猾になっていく。
一見すると禍と見えるところに、実は福があり、福と見えるところに、実は禍がある。こちらの端の極とその反対の極を比較して全体を見る事ができないでいるところに、正しいなどということがあるのか。正しいことも奇道になってしまうし、善もまやかしになってしまう。人が迷いだしてからもう大分長くなるというのに。
そこで「道」を生きる人は、全体まるごとを見るようにして、決して細かく区分して見ようとしない。言うべき事はしっかりと言うが、口で人を傷つける事はしない。正しくしようとするが、無理してやろうとしない。光を持ってはいるが、それを輝かすことはない。
『老子』蜂谷邦夫訳注 岩波文庫をもとに一部改訂

四行目の「禍は福の倚る所、福は禍の伏す所なり」という部分が印象的な章である。
福と禍という両極にある現象も、実は不可知な因果関係でつながっている、と老子は言っている。

福は禍に寄り添うようにやってきて、禍は福のすぐ裏側にある、ということである。

この一文が端的に示しているように、この章は「絶対性」を否定している文章だと思う。
それを「絶対」の不確かさという表現にしてみた。

「禍福はあざなえる縄の如し」と言うが、
禍いと幸福は、寄り合わさって人生という一本の縄となっている。

あらゆる物事には正悪の両面があって、ある日突然正悪がひっくり返ることがあるものだ。

それを、1945年8月15日を境にして起きた価値観の大転換に擬えてみた。
最近の例を挙げれば、ゴーンショック前後の日産自動車にも同じ図式があてはまるのかもしれない。
 
 

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