風

【掌編小説】風

その風は、どこをも旅したのが自慢だった。

生まれは山あいの、小さな湖だったように思う。
気づいたときには、風は風として、湖のそばの林の木々をそよと揺らしながら、世界へ向けて旅立っていった。

あるとき、風は山の間から村に降りて、民家のかやぶきの屋根をざわざわと揺らしたことがあった。
そこには朝の農作業を終えたひとりの男が昼寝をしていて、ひとりごち、つぶやくのだった。

「ああ、気持ちいい風音だ。おかげでよく眠れるよ」

またあるとき、風は都市のビルの隙間をぬって、ひゅうっと仕事帰りのサラリーマンの顔に吹き付けたことがあった。
そのサラリーマンは目を細めて風をやり過ごし、つかの間は立ち止まりさえしたが、風が通り過ぎると、またすぐに雑踏のなかを歩きだした。

(あれ、おれは何を考えていたんだっけなあ。まあいいや)

しかし、その刹那のうちにサラリーマンは今日の仕事の憂鬱を忘れられていた。

風は海をわたって、もくもくとした雲を青い空に吹いて流したこともあった。
とおく離れた砂浜では、その雲を指さして会話する親子がいた。

「お母さん、あの雲、うごいてる!なんで雲はお空をあるいているの?」
「そうねえ、雲のおうちに帰るためよ。そろそろ私たちもおうちに帰ろうね」
「うん!」

ふたりは笑いあって、手をつないで、幸せが家で待っている帰りみちを歩くのだった。

***

その風は、どこをも旅したのが自慢だった。

ちいさな湖で生まれて、山を越え、都市を吹き抜け、海をわたった。
いろんな国に行った。いろんな人を吹いた。たくさんの自然を撫でてきた。

孤独ではあったが、自然の決めるがままに流れて旅をして、その旅はうつくしかったから、たくさんの人のためになって、しあわせをつくりつづけた。

それでも風は流れるものだから、流れるままに、忘れられていく。
昼寝をしていた男も、サラリーマンも、親子も、山や海さえも、その一吹きの風を覚えていることなどなかった。
彼らは、ただ風が吹いて寄こした一陣のしあわせのみを、こころのかたすみに置くのみだった。

そしていつしか、風は死ぬ。
風の死とは、止まること。

風は旅の終わりに、小さな湖――その風が生まれたあの湖によく似ていて、しかし、あの湖とはほど遠いところにある――にたどり着いて、旅を思い出しながら、ゆっくりと、止まって、空の一部になって、死んだ。

そして、あたりはただ空があるのみ。

そんな風のような人生に、あこがれているのです。

読んでくださる方がまいにち増えていて、作者として、とてもしあわせです。 サポートされたお金は、書籍代に充てたいと思います。