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【掌編小説】きらい

彼は、“きらい”をどうしても愛せなかった。
どうやら“きらい”を持っていれば、他人と簡単にこころを通じ合わせたり、自分を強くみせたりできるらしい。

けれども、どうしても、彼は“きらい”を愛せなかった。
そして、愛していないものを、彼は持ってあるけなかった。

***

たとえば職場の同僚とランチを食べるとき、彼は困ってしまう。
ミートソースのパスタに、同僚の“きらい”が振りかかってどうしてもまずくなってしまったりするからだ。
同僚たちは、ペペロンチーノやカルボナーラに“きらい”をぱらぱらとふりかけて(上司のことや、職場の待遇のことなど)、いとも美味しそうに平らげているというのに。

そして、またやっかいなことに、同僚に対しても彼は“きらい”の気もちを持てないから、同僚たちにも親身になって、空の共感をしてあげたりするのだった。

***

そういえば、彼はインターネットもすきではなかった。
顔がないだれかの“きらい”がそこには溢れていて、情報を探すときにじゃまくさいからだ。

顔がないのに“きらい”なんて投げかけて、何が楽しいんだろう。
彼はそう思った。
彼はまっすぐだが、負けずぎらいな性格だったから、どうせなら直接ぶつけて喧嘩してしまえば楽しいだろうに、なんて考えたりもした。

***

彼は、しかし、自分のそういうところを誇らしく思っていた。
自分は人間ができていて、ほかの人間はそうでないから、”きらい”など持ちあるいているんだ。
そう思っていた。

そして、彼はそれを自分の魅力だと思っていたから、ある晩、ある女に、

「というわけで、ぼくはどうも“きらい”を愛せないんだよ」

と話してみせた。
しかし、聡明な彼女は

「それはあなたが、ほかの何をも愛していないからよ。愛していたら、感情がいろいろとあふれるものだわ」

と、すずしく答えたのだった。

***

彼は悩んだ。
「ぼくはどうして、ほかの何をも愛せないんだろう」
愛とは、彼が重要に思っているものだった。
例えば彼の友人や部下に、愛の素晴らしさを説いていることさえあった。
愛を持てないという自意識は、彼の人格を否定し、彼をくるしめた。

***

悩んだすえ、彼は、“きらい”を持って、ためしに誰かへ投げかけてみようと思った。
彼は、件の女を呼び出した。
彼は、こころのうちで彼女を恨んでいたのかもしれない。

***

そして彼はついに言った。
「ぼくは、きみのことが“きらい”だ」

すると彼女は笑みを浮かべて、そして浮かべたままに、目じりから涙をひとつ流した。

つと流れるその涙を。

彼ははじめて“すき”だと思った。

そしてそれは、“きらい”のどすぐろい闇を背景に、きらきらと光っていた。

読んでくださる方がまいにち増えていて、作者として、とてもしあわせです。 サポートされたお金は、書籍代に充てたいと思います。