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君と語りたい本がある。三冊目『春や春』/ 著・森谷明子

今回ご紹介したい本は森谷明子さんの小説『春や春』。全国高校俳句選手権大会、通称「俳句甲子園」を目指す女子高生たちの奮闘を描いた青春小説です。2015年に単行本、2017年に文庫本が出版されています。

~ あらすじ ~

須崎茜は文学好きの父の影響で幼い頃から俳句に親しむ、私立藤ヶ丘女子高校の一年生。俳句が好きだからこそ、ある日の授業で「俳句は文学ではない」と言い放った国語教師の富士真砂子と対立してしまいます。俳句を否定されたことで茜は闘志を燃やし、友人の加藤東子にも背を押される形で全国高校俳句選手権大会、通称「俳句甲子園」への出場を決意しました。

ひとつは富士を見返すために。もうひとつは、前回大会の出場選手に知り合いの名前を見つけたためでした。家庭の事情で今では連絡先も分からないその子ともう一度会えるかもしれない。そんな淡い期待も胸に、2年生に進級した茜とトーコは俳句同好会のメンバーを集めていきます……。

小説『春や春』は、俳句と女子校生という異色な組み合わせの部活動小説です。全国大会を目指す俳句同好会の活動を通じて、登場人物たちの関係性や俳句の魅力などが描かれていきます。

ところで、私はこの本を読むまで俳句甲子園そのものを知りませんでした。学校の授業で五七五や季語、切れ字など、俳句の基本的なことは誰もが教わります。でも、部活動として創作に取り組む高校生はあまり多くはないでしょう。野球や吹奏楽に比べたら認知度や人気もかなり低く、私がそうであったように、「俳句になんて興味がない」という方も大勢いることと思います。

そんな人にこそ、ぜひこの本を読んでもらいたいです!

もう、めっちゃくちゃに面白い小説です。俳句の十七音に込めた表現の奥深さや面白さ、そして言葉の選び方や美しさを、この小説は素晴らしいほど見事に描いています。俳句の知識があまり無くてもきちんと楽しめる、登場人物やストーリー構成も魅力的です。

ストーリーは全10章で構成されており、9人の主要な登場人物が各章で語り部を務めます。(主人公の茜が最初と最後の2章を担当)

この登場人物の関係性とバランスがすごく良くて、連作短編小説のように多角的な視点から物語が進みます。そこがこの作品の面白いところです。一人ひとり考え方も違えば、俳句や部活動に対する姿勢や立場も違います。だから物語にメリハリも生まれます。

中でも個人的に好きなのが2年生トリオの茜、瑞穂、トーコの3人。優等生タイプで王道的な俳句が得意の茜、一方、夢見がちで変則的な俳句が得意の瑞穂、そして、創作が苦手ゆえに俳句が全然作れないトーコ。この3人の関係性が物語を大きく動かす原動力になっていて、ひとつの視点に定まらない様々な解釈を与えていきます。そこが、俳句という題材と、俳句甲子園という大会の面白さにも関係してくるのです。

俳句甲子園はチーム戦です。

出場チームは5名で編成され、与えられた季題に沿って各人が事前に俳句を提出します。そして、当日の試合では対戦チームが互いの作品を鑑賞するディベートが行われ、俳句の完成度を評価する「作品点」と、ディベートの内容を評価する「鑑賞点」を審査して、最終的な勝敗を決します。

つまり、突出した個人だけでは勝ち抜けない仕組みとなっており、チームとしての総合力が問われる競技です。

文章にまとめると地味に見えますが、これがすごく秀逸なルールになっています。と言うのも、俳句は本来、個人の表現としての側面が強く、そこに優劣やチーム戦を導入する意義がどこにあるのか、という問題があるからです。これをいかに面白く、そして納得のいく形で解決するのか。そこも大きな見所であり、登場人物たちの関係性や葛藤、そして成長を通じてストーリーの中で語られていきます。

部活動小説だからこそ、登場人物たちは部活動から何かを学び、成長しなければなりません。「俳句」という難しい題材の中で、『春や春』はその一番大切なところを見事に描いてみせました。

正直、読み始める前はどう面白くなるのか不安な部分もありました。俳句で勝負をするイメージが湧かなかったのも理由のひとつでしょう。でも、読み終わってみれば最高に胸が熱くなる素晴らしい作品です。青春の情熱を燃やすに値する、高校生たちの熱い物語がそこにあります。俳句がこんなにも面白いものだったなんて、高校生だった頃の自分に教えてやりたいくらいでした。

そして最後に、この小説における特筆すべき点が、終盤における余白の描き方だと私は思います。

作中では「言葉に頼る」とか「季語を信頼する」と表現されますが、要は言葉を省略する俳句の技術で、その意味は「空」について解説した次の文章が分かりやすいでしょう。

空は広がっているもの、その空を詠む奴は見上げているものなんだ。そんな当たり前のことを詠むな。読み手は「空」の一文字だけで、広がっている空を思い浮かべるし、作者はその空を見上げているのだと認識する。だからわざわざわかりきっていることは、十七音に含めるな。空を詠むなら当たり前じゃない空を詠め(「春や春」p.285)

十七音という制限があるからこそ、俳句の言葉選びには徹底的な選別が必要です。だから、「広い空」とか「空を見上げる」という言葉は不要と考えます。

これは本当に、目からうろこでした。

何となく俳句を理解したつもりでも、こういうところで実は何も知らなかったのだと気づかされます。小説のように言葉を尽くして表現するのではなく、言葉を省略することに意味がある俳句の表現。そこに宿る日本語の美しさを、私はこの小説を読み進めることで強く実感していきました。

小説が次第に俳句化していく。

とでも言いましょうか。最高潮の盛り上がりを見せる終盤で、ふと、文章の余白を感じることがありました。省略された文章がそこにあるのです。言葉を信頼し、読者の想像力を信頼することで、文章による描写を可能な限り省いていく。それはときに小説が破綻しかねない手法でもあります。でも、絶妙なバランスで疾走感を維持したまま、物語はクライマックスへと駆け抜けるのです。

この終盤の盛り上がりが、私は本当に大好きです。言葉少なくとも通じる想いを確かに読み取ることができて、その光景をありありと想像することができました。だからこそ、この小説のタイトルに込められた感情の深さに、私は胸が熱くなるのです。


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