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人間社会は音声言語に頼りすぎなんじゃないの(2023年12月31日の日記)

年末に今年いちばんともいえる作品に出会いました。

「デフ・ヴォイス」
2011年刊行の小説がこの年末に草彅剛主演で実写ドラマ化されました。
CODA(Children Of Deaf Adults 聞こえない両親のもとに育った子ども)が主人公のミステリー作品です。

ドラマ化にあたり、ろう者・難聴者の役はすべて当事者が演じ、
脚本制作の段階から、CODAや手話監修の方が関わるという徹底ぶり。
ろう者・ろう文化を良く知らないわたしにも、この作品は圧倒的なリアリティーと説得力で心を揺さぶり、
頭をいっぱいにしてきました。
前後編を一気見し、その余韻と勢いで原作小説、それに続編小説も一気読みしてしまいました。

最近は知られてきましたが、手話には大別すると一般的に良く知られている「日本語対応手話」(日本語にひとつひとつ手の動きを当てはめる手法)とろう者が昔から使っている「日本手話」(日本語の文法とは全く違った独自の言語体系を持つ。手の動き以外に顔の表情や眉の上げ下げや口の形等も重要な意味を持つ。)とがあります。
なので、母語が日本手話の人には、日本語対応手話はさながら外国語で「理解できるけれども疲れる」ようです。
(昨今では「手話は言語である」と認めて理解促進・普及を目指す「手話言語条例」を制定する動きも広がっていますね。)
ろう者は自分たちのことを「聴覚障害者」ではなくて「ろう者」と呼び、聞こえる人たちを「聴者」と呼びます。
障害者ではないんですね。手話を使う「民族」であると。だから「ろう文化」なのだと。

しかし圧倒的に聴者が多いこの社会で、ろう者は「聞こえないならどうせわからない」と劣った存在だと見られてきた歴史がありました。
情報保障がなく、高等教育を受けることに躊躇するろう者も多かったそうです。
職業的にも、いわゆるホワイトカラーな頭脳労働よりも、理髪師等の技術労働に携わる人が多い現実があるそうです。

そしてろう者にも当たり前ですがいろんな人がいます。
育った環境にしても、両親がろう者なのか聴者なのか、早くからろうコミュニティに繋がったのか、
ろう学校に通ったのか、インテグレーション教育(聴者が通う学校に通う事)を受けたのか…
中途失聴の方もいます。その場合も、幼いときに聞こえなくなったのか、大人になってから聞こえなくなったのかではだいぶ違います。

こうやって見ていくと、自閉症で言語化が苦手なわが子たちを含む、自閉症児者のことを私はやはり考えずにはいられません。
ろう者がそうであるように、母語が音声言語ではなく手話である人もいるのですよね。
これは私が自閉症と生きる息子を育てる上で、「この子の母語は何であろうか」とよく自問するのですが、ひとつのヒントになるものだなと。
息子は、音声日本語を使って話したり聞いたりすることはできます。
でもそれはどこかぎこちなく、「外国語を話すように」日本語を話している様子に近いのです。
もっと言語に依らず、映像的なもので捉え・考えているのだろうなと。
自閉症児者の中には、音声言語は発しないものの、絵カードならば、あるいは文字ならば伝えられる人もいます。
今の社会は、音声言語に頼り過ぎなのかもしれません。

画像右側、「龍の耳を君に」はデフ・ヴォイスの続編です。
この作品の中には場面緘黙の自閉スペクトラム症児がキーパーソンとして登場します。
CODAが主人公の作品でこの事実だけでも衝撃ですが、場面緘黙や自閉スペクトラムについても
著者がかなり詳細にリサーチしており、感嘆しました。
話さないから、人に伝えられないからと言って、その人が何も考えていないわけではない。
だからこそあらゆる発信の手段を保証し、その手段を身に着けてもらうこと、そしてそれを理解する「耳」を持つこと。
コミュニケーションは必ず双方向です。
どちらかだけが悪いわけではない。(手話ができないわたしたちにも問題がある)
そして人間は社会的な動物なので、コミュニケーションは必須。
どんな特性があろうと、その人の「声」をふさぐことは許されるべきではありません。

マイノリティはその特性は異なっても、多数派とのかかわりや課題に共通することがとても多いなと。
自閉症児者は「自閉文化を生きる少数民族である」という考えも最近は出てきました。
私もそう思います。
発達障害も遠くない将来、「障害」と呼ばれなくなる日が来ることを、私は切に願っています。

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