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写真を撮るとき、私は何を考えているのか

結構聞かれる質問なのだけども

「写真を撮るとき、何を考えているの?」
この間も友人に聞かれて「構図とか、光の差し込み具合とか、瞬間にいろんなことを考えて撮ってるよ」と答えてしまった。
けどそれは技術的な思考回路であって、恐らくあの時友人が求めてた答えは少し違ったかもしれないなぁ、と海外旅から帰国後のお家で、お土産のラオスコーヒーをいただきながらぼんやりと思い返していました。

ラオスのコーヒーは濃厚な分、甘いものとの相性最高だよ

きっとあの時友人が聞きたかったのは
「写真を撮るときにどんな風に心が動いているの?何を想うの?」
という、もっと私の内側の部分を指していたような気がして。
いい機会なのでnoteに落としてみることにしました。
私はフォトグラファーなので仕事として写真を撮ることが多いですが、ここでは旅先やプライベートで撮るときの心の動きについて書いてみることにします。

それは感情に言葉がつく前の、柔らかい卵のような

さっそく自分の心に問いかけてみました。で、どうなんですか?って。
そしたら返答は、実際シャッターを切りたいなと想うその瞬間、私の心の声は「あっ」とか「ぐわ〜」とか、そんな感じでした。
で、ほぼ同時にもう写真を撮り終えている。

これとかすごい、あっ、の瞬間

一般的には美しい夕日などを見た時「わぁ綺麗〜」と思いながら撮る方が多いのではないでしょうか。

私の場合、「あっ」の後に「綺麗だな」とかそのまま脳をじっくり言語化モードにスライドさせることもできますが、その間に私の心を動かした現象は過ぎ去り、後に残るのは余韻だけで、感情の鮮度が落ちていくのがもったいなくて。

そうなる前にひとまずこの、私の心を動かしてきた目の前の現象を瞬間冷凍せねば!と私の感情の枠に入った瞬間に写真を撮るオートモード設定。
なんか漫画ハンター×ハンターの登場人物キルアが身体がそういう反応するように、自分の脳に命令する電気技ありましたよね…
(すぐハンター×ハンターに例えたがるクセ)

対話し写真に染み込ませていく

そして、写真を撮った後はなるべく早めにデータをカメラからパソコンに移して編集作業に入るようにしています。
なぜなら、私がその場で感じた匂い、湿度、光の温かさ、心の動きの出どころ、それらの鮮度を覚えているうちに1枚の写真に押しとどめてしまいたいから。

私にとって編集の時間は、写真と対話する時間でもあるのです。
あの時どこに心が動いた?どこに面白さを感じてた?
あの時瞬間冷凍した記憶をゆっくり解凍しながら、編集者の私と、心の中の私と写真との三者面談。対話を重ねながら感情を写真に染み込ませていく。

そうしてだんだん気づきが明確になっていくのです。

成長までの途方もない時間
ラオスのモーニングマーケット。ここからこの国の人たちの「今日」が始まるんだね

私の写真の内側にあるもの

写真って主観でしかないんです。
例えば私の写真を見て、ラオスに行った人はもしかしたら「ここまでの空気感は感じなかったぞ」とか思っちゃうかもしれない。
そりゃそうです、これは私の目を通した私の世界であり、いうならばちょっとパラレルワールド。
写真というものは、美しいと同時に祈りであり、願いであり、残酷でもあり、時に暴力性も持ち合わせていると、私は思っています。

だから慎重になる時もあるけれど、これまで私が撮った旅の写真たちと対話してきた結果、共通点がありました。
それは気づきや感動の前に必ず世界への愛おしさがあるということ。

旅は平和でないとできない。
今も決して平和な世の中とは言えないけれど、だからこそシャッターを切る時、ひとまず目の前の平和に安堵し、その場に居合わせていることに感謝し、写り込む人のこれからが明るいことを願う。
写真を見返してその時の温かさや感動を思い出して、愛おしいなと着地する。

旅に限らず、日々生きていれば平和だけでなく苦しい泥のような出来事もあります。

でもね。

いつか命を終える時、私は泥も含んだこの人生を両手で掬い取り、「ほら、人生ってなかなかに面白いものでしょう」とこれから生まれてくる人たちに置いておきたい。
この気持ちは私の人生観について書いた過去記事「私、たまたま生きている係なの」から一貫して変わらず、写真はそのための手段の一つ。

だから「写真を撮るとき、何を考えているの?」と言われたら今度からこう言うかな。

「今日も世界が愛おしいなと想っているよ」って。



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