北川和美「超楽天的ロシア語通訳翻訳者の日常と非日常」

フリーランスのロシア語通訳翻訳者。山とトレイルランニングをこよなく愛してます。

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最近の記事

声を上げるロシア動員兵の妻たち

 昨夜(2024年4月2日)放送された、NHK クローズアップ現代「“プーチンの戦争”あらがう女性たち ロシア・銃後の社会で何が」。  ロシア国内にいる人たち(の一部)が、ウクライナ侵攻についてどう考え、行動しているのかを、「プーチ・ダモイ(家路)」という動員兵の妻たちの運動に焦点を当てて伝えています。  「プーチ・ダモイ」は、当初は、ウクライナ侵攻に動員された自分たちの夫の帰宅を求めていましたが、その後、運動の規模拡大とともに要求を先鋭化させ、今ではプーチン大統領に、「

    • 同時通訳に原稿はあった方がいいの?

       久しぶりに、丸一日、対面の日露の会議の同時通訳を、3人の通訳者で交代しながらやりました。  コロナとロシアによるウクライナ侵攻で、日露間の会議は激減し、開催されてもほぼオンラインだったので、対面の会議で、会議場内に設置された同時通訳ブースに入って通訳するのは、なんと2年2ヶ月ぶりでした!  もちろん会議事務局は、スピーカーに「どんな形でも良いから、とにかくなるべく早く資料をください」と一度ならず依頼しているはず。だって通訳者はエージェントに、エージェントは会議事務局に、

      • ロシア国民は反戦の声を上げていないのか3

         さて、2022年2月のウクライナ侵攻が始まった直後に、話を戻します。  多くの市民が街頭デモに参加して拘束されたり失職した以外にも、著名人たちが反戦の声明や大統領への公開書簡を出しました。そうした声明に名前を連ねた人たちは、公の場での活動を禁じられました。アーティストはコンサートができなくなり、映画監督は撮影予算をもらえず作品公開を禁じられ、研究者は所属先を解雇されました。本人のみならず、家族も弾圧や嫌がらせの対象になりました。  当局による弾圧や動員を逃れて、国外に脱

        • ロシア国民は反戦の声を上げていないのか2

           プーチン大統領は、これまでも、石油会社ユコス社長だったミハイル・ホドルコフスキーを8年以上にわたって刑務所送りにしたり、チェチェン戦争でのロシア軍の犯罪行為を告発したジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤや、反体制人気政治家のボリス・ネムツォフを暗殺するなど、自らの権力を脅かすカリスマ的存在を、排除してきました。暗殺については、プーチン大統領本人の指示があったという証拠はないものの、大方の意見はそうです。  政権による弾圧を恐れて国外移住する著名人が多い中、ナワリヌィや

          ロシア国民は反戦の声を上げていないのか1

           ロシアによるウクライナ侵攻から、2年あまり。  「なぜロシア人は、もっと戦争反対の声を上げないのか?」  「なぜ、プーチン大統領が隣の国に理不尽に侵攻しているのを、黙って許しているのか?」  ロシア語通訳翻訳者という仕事柄、しばしば、こういう質問を受けることがあります。  これは、日本を含む西側民主主義国に暮らす人たちが、今のロシアによるウクライナ侵攻を見ていて抱く、素朴な疑問だと思います。  全体主義社会がどういうものかを知らない人たちには、ロシア国内にいる人たち

          ロシア国民は反戦の声を上げていないのか1

          コツコツ続けること

           外国語の学習とランニングは、よく似ています。  どちらも、能力に関係なく誰でも、努力さえすれば(トップレベルになれるかは別として)、できるようになります。  そしてどちらも、努力を止めた途端に、あっと言う間に能力が落ちてしまうのです。  近所に住むママ友の英語通訳者は、平日は週5日、会議の同時通訳の仕事をしているそうです。「そんなふうに毎日仕事ができたらさぞかし上達するだろうなぁ」と、心から羨ましく思います。  それに比べてロシア語通訳者が同時通訳する機会は、多くて

          日常と非日常のバランス2

           深圳は、香港の北にある、面積も人口も東京都と同じくらいの巨大な市です。私が参加したのは、その深圳市を西の端から東の端へ駆け抜けるUTSZ(Ultra Trail Shenzhen)という大会でした。  あの時、日本国内で通訳の仕事をしなかったロシア語通訳者は、私だけだったんじゃないでしょうか? 通訳仲間には、「おいおい、この大事な時に海外へ? それも走りに?」と驚き呆れられました。  日露の歴史的転換点になるかもしれない重要なタイミングに、仕事を断ってまで、初めての海外

          日常と非日常のバランス1

           フリーのロシア語通訳翻訳者になって32年。  趣味でランニングを始めて18年。  今ではどちらも、私にとってかけがえのない非日常です。  ランニングを始めた理由は、育児からの逃避。年齢が近い娘2人の後追いがひどくて、「1人になりたーい!」と、休日の早朝、まだみんなが寝ているときに、こっそりお布団を抜け出して近所を走るようになったのです。  当時は家族5人、川の字+αで寝ていたので、お布団の中には、夫と息子(娘たちにとっては父と兄)がいたのですが、いつも一緒にいる母親

          米原万里さんのこと5 心臓に毛をもじゃもじゃ生やして

           「番組の途中ですが、〇〇の記者会見が始まりましたので、同時通訳でお届けします」  時々、テレビの番組が、こんなふうに中断されることがありますよね。これ、生放送中にやる同時通訳だから「生同通」というんだけど、画面に大きく「同時通訳 〇〇〇〇」って名前が出るから、否が応でも目立ってしまいます。  昔は「こういう緊張度が高すぎる仕事を引き受ける人の心臓って、一体どうなってるんだろう? もしかして毛がもじゃもじゃ生えてるんだろうか?」と、理解不能でした。誤訳なんてしない、超トッ

          米原万里さんのこと5 心臓に毛をもじゃもじゃ生やして

          米原万里さんのこと4 「米原基準」

           もう一つ、米原さんのお宅での丁稚奉公で得た学び。それは、米原さんの豪快な通訳スタイルは彼女独特のものであり、必ずしも普通の通訳者のお手本にはならない...というより、お手本にしてはならない、ということです。私はそれを「米原基準」と名付けました。  あるシンポジウムの同時通訳中、予定の終了時刻になっても終わらないと、米原さんがいきなりマイクに向かってロシア語と日本語で「まことに申し訳ありませんが、二人の通訳者はこのあと別の仕事があり、ここで退席しなければなりません」と言って

          米原万里さんのこと3 丁稚奉公編

           札幌から東京の米原さん宅に到着すると、翌日から早速、知的支援の講義や文学シンポジウム、テレビ生放送の国際関係シンポジウム、ホテルでの要人インタビュー、テレビ局の報道現場など、様々な通訳業務に同行させてもらいました。  あの1週間で、米原さんから教わったことは数知れず。最も印象に残っているのが「通訳者は月に10日仕事を受けて、のこりの20日はそのための準備にあてるのが理想」という持論(超売れっ子だったので、実際は逆の仕事20日、準備10日だったのではないかと思いますが)。難

          米原万里さんのこと2 出会い編

           初めての出会いは、1990年8月。1年半のロシア留学から帰ったばかりの札幌で、大学卒業後の進路を模索していた時期に、地元新聞社主催の日ロ軍事シンポジウムの同時通訳者として東京からやってきた米原さんと、ロシア側スピーカーたち(軍幹部)のアテンドとして一緒に仕事をしたのです。  第一印象は、才色兼備、おしゃれ、何にもとらわれない自由な雰囲気、そして、当時の私にとっては大人の女性の象徴だった香水。全身青ずくめの衣装で現れ、「青を身につけると飛行機が落ちない」説を披露されたのもこ

          米原万里さんのこと1 ルックス編

           ロシア語通訳の大先輩で、私がこの職業を選んだきっかけの一人でもある、故米原万里さんとの思い出を、一度きちんと書いておこうと思いつつ、たくさんの月日が流れてしまいました。  強烈な個性の人でした。舌禍が絶えず、通訳者からエッセイスト・作家に転身後は、文章に通訳仲間のことを、本名は伏せて「ある通訳」とかイニシャルで書いていましたが、同業者には誰のことかすぐにわかってしまうのです。物書きの宿命でしょうか? 書かれるのが嫌な人たちは、徐々に離れていきました。  それでも、物理的

          弱点はおいといて強みを生かした方が

           自分の強みってなんだろう?  通訳や翻訳の仕事をしていて、考えることがあります。  できれば、強みは伸ばして、弱点は克服したいですよね。  弱点は、瞬時にものすごくたくさん思いつくんです。  人間としては、 ・慌てん坊 ・忘れっぽい ・直感で行動して熟考しない ・思ったことをすぐ言葉にしてしまう ・忖度できない ・周囲に対する気遣いが足りない  これらの弱点は、大学卒業後すぐにフリーになって、一度も会社勤めをしたことがないことで、ますます助長された気がします。

          北方四島ビザなし交流3

           北方四島ビザなし交流事業の開始から1年8か月後の1993年12月に、「ロシア語通訳協会」の会報に、次のような記事を書きました。31年経った今は四島もずいぶん発展して、道路やトイレ事情はかなり良くなりましたが、当時の様子を伝える生の声。少々長いけれど、よかったら読んでみてください。 「ビザ通」の醍醐味をあなたも    ゴルバチョフ訪日から1年後の1992年4月に始まった、いわゆる「ビザなし」渡航もそろそろ満2歳。パスポートのかわりに「身分証明書」、ビザのかわりに「挿入紙」

          北方四島ビザなし交流2

           嵐のような初回受入れが終わると、しばらくして今度は、日本の元島民と政府や自治体関係者に、私たち通訳者二人の計34名を乗せた船が、根室港から出航。国後、色丹、択捉の三島を訪問しました。  小さな船が揺れに揺れて、乗り物酔いのひどい私は胃の中のものをすべて吐いてしまい、ふらふらになって国後島に上陸。もう時効だと思うから告白すると、まず最初にしたのは、同じくふらふらになっていた北海道庁の職員さんと二人で人道援助物資の段ボール箱を開けて、リンゴを一つずつ食べることでした。人生で最