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米原万里さんのこと3 丁稚奉公編

 札幌から東京の米原さん宅に到着すると、翌日から早速、知的支援の講義や文学シンポジウム、テレビ生放送の国際関係シンポジウム、ホテルでの要人インタビュー、テレビ局の報道現場など、様々な通訳業務に同行させてもらいました。

 あの1週間で、米原さんから教わったことは数知れず。最も印象に残っているのが「通訳者は月に10日仕事を受けて、のこりの20日はそのための準備にあてるのが理想」という持論(超売れっ子だったので、実際は逆の仕事20日、準備10日だったのではないかと思いますが)。難解な専門用語も天賦の才で軽々と訳しているように見えても、本番のために、その二倍の時間をかけて準備する努力の人でした。

 その後の講演やエッセイで、米原さんが、プラハのソビエト学校時代に、言葉や文化の壁を苦労して乗り越えたこと、帰国後、今度は帰国子女として日本で再びそうした壁にぶつかったこと、また、帰国以来、常に日本語コンプレックスを抱いてきたことなどを知りました。天才バイリンガル少女が何の苦もなく一流通訳者になったわけではなかったのです。

 米原さんが、プラハや帰国後の日本で言葉の壁を乗り越える助けになったのが、読書。私が泊めてもらった部屋の壁は全面書棚になっていて、さまざまなジャンルの本がぎっしり詰まっていました。あの読書量と多様なラインナップが、米原さんの通訳や、後に作家になってから書いた文章の基礎になったことは間違いありません。毎晩壁一面の本を見ながら、「私も札幌に帰ったら、もっともっと本を読もう」と心に誓いました。

 米原さんは「ロシア語会議通訳者」の肩書のほかに、「ロシア語通訳協会事務局長」の肩書も持っていて、名刺にはそちらの肩書だけを印刷しているほど、ロシア語通訳協会への強い思い入れを持っていました。

 ロシア語通訳協会は、今でこそ事務所があり事務スタッフもいますが、当時は会長と、事務局長だった米原さんの自宅が、実質上の事務所になっていました。米原家の書斎は協会発行の教材であふれ、米原さんは毎日、協会関係の電話の応対や教材の発送に追われていました。私の手元には今も、教材を注文した時に協会から教材とともに送られてきた、米原さん直筆の納品書兼請求書が残っています。

 会報の編集もしていて、私も記事を書かされました。「あら、なかなかうまいじゃない。その調子」と持ち上げられて、私はそれ以来、人に頼まれて原稿を書くのが前ほど億劫でなくなりました。のちに人気作家になった米原さんですが、褒め上手、のせ上手で編集者としても成功したのではないでしょうか。

 こうして、あっという間の1週間が終わりました。今から思えば、この丁稚奉公を頼んでくれた先輩も、押しかけた私も、かなり、いやものすごく厚かましいですよね。でも米原さんは、そんな私をいやな顔一つせず迎え、すべての仕事に同行させてくれたのです。

 今、自分が当時の米原さんの年齢をとっくに追い越してみて、改めて彼女の懐の深さを思います。今の私に、あの時の米原さんのような、通訳者としての力量がないのは仕方ないとして、せめて、後輩に手を差し伸べる人間的な器が備わっているだろうか、と。

(写真は 株式会社KADOKAWA「「心に効く、愛と毒舌」米原万里没後10年フェア開催!」の記事からお借りしました)


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