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「ハイライトと十字架」

 壁掛け時計の針が秒を盗む。午後十一時五十八分。オフィスビル八階。真白杳は事務用チェアの背もたれに体を預け、天井のタイル目地を眼で追っていた。壊れた蛇腹のブラインドの間から月の光が僅かに差し込んでいる。真白はデスクトップパソコンのキーボード上に指を乗せたまま、無意識に人差し指の腹で同じキートップを叩き続けていた。画面上には、繰りかえされる『G』の文字があった。時計の秒針が、はめ込まれた硝子の内側で滑らかに廻りつづけた。
 窓際の座席には既にマグの底で干涸らびている徳用紅茶のティーバッグと、形の整った黒のブランドポーチとがある。日めくりカレンダーには「十二月二十五日 大安」と書かれてあった。真白はおもむろに席を立つと、無言で日めくりカレンダーの日付を破り、十二月二十五日を裁断機に掛けた。シュレッダーは無機質に紙を呑み込んだあと、聖なる日をただの紙屑に変えて吐き出した。ディスプレイの前に戻った真白は、書式のセルを埋め尽くした『G』をまとめて選択し、デリートボタンを押下した。この部屋には、聖クリストフォロスのメダルも、ゴミ置き場に棄てられた鳥籠も、名前のない猫も、神様もいない。整備済みの空調が、真白のことばを掻き消していった。
 テンキーを叩く音が室内で反響する。真白の中をいくつものランダムな数字が無数に通り抜けていった。一通りの入力がなされたあと、Enterキーを小指で静かに落とした。『書面を保存』をクリックし、ウィンドウを閉じると、時刻は午前零時を回った。PCをシャットダウンし、机上灯を消し、空調をオフにすると、真白は縦隊のように列をなすデスクの間を抜けて、オフィスのドアノブを回した。片手には黒のブランドポーチを抱えている。掲示物の貼られた廊下の角を曲がり、ひと気のない突き当たりまで来ると、一度後ろを振り返り、化粧室の中にさっと姿を隠した。路地裏へと姿を消す黒猫のように。
 入り口の全身鏡に、真白の立ち姿がくまなく映し出されている。履き潰されて角の擦れた紺のパンプス、膝に小さな孔の開いたベージュのロングストッキング、量販店の特価オーダースーツ上下、淡いブルーのブラウスの襟には糸のほつれがあり、ダークブラウンで染められた髪には、ヘアアイロンの巻き癖がついていた。
 両眼の下には学生の頃から取れない隈が縁取られていたが、その瞳だけは、たったいま磨き上げられたばかりの黒曜石のような艶を帯びていた。ちょうど真白の指先が、ポーチのファスナーに触れたところだった。
 ロゴの入ったファスナーの引手を滑らせる。中には円筒形の小さな物体が収まっている。真白はそれを抜き身の刀のようにポーチから引き抜くと、掛けていた銀縁の眼鏡を外し、蛇口の後ろにそっと置いた。鏡面に映し出されたもうひとりの真白の手にはI字型の電気かみ剃りがしっかりと握られている。真白は左眼を隠すように手をかざし、眉の下に添え、I字かみ剃りのスライド式スイッチをオンにした。夏の蝉の羽音に似た、電気かみ剃りの刃が振動する音がした。 
 眉間からかみ剃りを左へと払う。上眉の端から端まで、刃先は正確な直線をなぞった。その手に迷いはなく、握られたこぶしには、指の関節の小さな骨が浮き出ている。剃り上げられた眉の跡は、定規で引いたような水平を保っていた。僅かに盛り上がった皮膚が摩擦で紅く滲んでいる。
 鏡の中の真白が腕を降ろしたとき、「彼女」が唇の端を上げもせず、下げもせずに、ただそこに佇んでいるのを知って、真白は思わず微笑した。わたしたちはもう他人だわ。真白は胸の内で繰りかえした。十字のお守りを握りしめるように。鏡の中のもうひとりの「彼女」がにっこりと笑った。片眉は薄く剃り落とされたまま。
 左の甲で右眼を隠し、もう一度眉間から外へ向かって払ってゆく。今度は右へ流すように。振動するモーター音とともに刈り揃えられていく上眉を、真白は片目で追った。眉は取り替えられる平均台のように次第に幅を細くしていった。眼鏡を外したまま、真白は手慣れた様子でかみ剃りの刃先で直線を引いた。両眉を剃り上げると、真白はスイッチをスライドし、かみ剃りの電源を落とした。かみ剃りの刃が止まった途端に、化粧室内のすべての音が溶けていった。高い位置に取り付けられた小窓に隙間風が吹いている。窓の桟には破れかかったクモの巣が張っている。その糸の間を伝って、水滴が死に際の血の暗号のように垂れ落ちていく。真白は両腕をだらしなく下ろし、かみ剃りの柄を握ったまま、意味もなくスイッチを入れたり、落としたりしていた。そしてもう一方の空いた手の指先で、首筋の細い動脈を探り当てると、血管の浮き出た首元に向かって、刃を当てた。落としたスイッチを再び押し上げようとしたそのとき、廊下を歩く誰かの足音がした。
 足音が化粧室に向かってきていることを知った真白は、手早くポーチにI字かみ剃りを放り込み、急いで眼鏡を掛け直すと、間髪入れずに化粧室の外に出た。廊下へ一歩踏み出した瞬間、フラッシュで焚いたような光が真白の顔に当てられた。
「あんた、何をやってる?」
 懐中電灯をかざした白髪の警備員が言った。べっ甲の眼鏡の奥には疑わしげな眼が覗いている。
「いえ、あの、残業で遅くなってしまって……」
 真白はポーチを隠すように持ったまま、警備員の脇を通り過ぎようとした。警備員は腕時計を何度も指先で叩いて言った。
「八階のひとだね。もういくら何でも門限過ぎてるよ。あー、記録付けることになってるから。名前は? ……ねえ、ちょっと待ちなさいよ」
 警備員は踵を返し、通り過ぎていった真白のあとをゆったりした足取りで追いかける。真白は無言でエレベーターを呼び出した。下りボタンを押し、間もなく扉が開く。素早く身を滑り込ませると、地上階のボタンを指で叩き、「閉」ボタンを連打した。警備員は慌てもせずに呆れ返った様子で、エレベーターホールから数メートル離れたところで、帽子のつばに手をかけたまま固まっていた。
「あんた、何か……おかしいよ」
 閉じていくアルミニウムの扉の間で、真白は警備員の足下にある灰色のコンパスの装飾を見つめていた。エレベーターの階数表示が下っていく。
「クリスマスは終わり、神様はもうここにはいない」無人のエレベーターの中で、真白は吐き出した。
 それから、キートップを叩き続けてできたひと差し指のまめの皮を、固くなった親指の爪でそっと押し潰した。
 ビルの正面玄関にある重いガラス戸をこじ開けると、真白はイルミネーションの電飾の残る通りへ向かって歩きはじめた。そしてまだ明けたばかりの十二月二十六日の夜の中へ、姿を消した。

 駅の自動改札を抜け、連絡通路の階段を降りていく。ホームに立って辺りを見渡すとまばらな人影が二、三見えるばかりだった。誰もが侘しい顔をして、コートの中に顔をうずめながら、ホーム下の線路を見つめていた。空は鯉池のように濁り、小雨が降っていて、ホームのポリカーボネートの屋根の上では雨粒が弾ける音がした。黄味がかった旧型の電灯は既に交換が必要なほど点滅しており、真白の足下に淡い灰の影をつくっていた。白線の内側と外側を、パンプスを履いた足先が交互に行き来した。待合室にはまだ年端もいかぬ十代の少女に見える女が座っていて、丈の短すぎるスカートの裾を触ったり、離したりしながら、奇妙な笑みを浮かべていた。隣の空白の座席には、オイルの少なくなったライターがポケットから放り出されていた。まだ火の消えていない煙草の端を、彼女は器用に中指と薬指でつまんでいた。硝子越しに真白が眼を合わせると、少女はそれを何かの符号と受け取ったのか、煙草を指の間からわざと落とし、黒ブーツの厚い底を捻りながら、フィルターが潰れるまで火を揉み消した。それでいながら、少女は硝子窓の内側で、ショーウィンドウのマネキンよろしく、純真な笑みを浮かべているのだ。そのえくぼを見ると、鏡の中の『彼女』の笑みを重ね、真白は耐え切れず顔を背けた。
 ――ねえ、どうして私たちはいつもこうなるのかしら、ただ生きているという、それだけの事実のために。

 真白は待合室の前を足早に去り、屋根の下を過ぎて、柵のあるホームの先端に向かって歩いて行った。点字ブロックの上に吐き出された吐しゃ物の酸い匂いに反射的に顔をしかめると、駅舎の壁にうずくまっている酔っ払いの男が見えた。それらを遠ざけながら、小雨の降るプラットホームの端で、終電がやって来るのを待っていた。しばらくすると、向かいのホームに列車が入構した。乗客をひとりも乗せぬまま、列車の扉が閉まった。明かりのついた無人の車両が、真白の目の前を通り過ぎていった。
 青い水銀灯が足下を照らしている。車両に乗り込む前に降っていた雨は、列車の扉が開くとみぞれに変わっていた。前髪や頬にぶつかっては弾けていくその小さな氷の塊を、真白は払いのけもせず、俯いて道の先を歩いた。高級住宅街のある通りに入ると、ガレージのついた門構えのある一戸建ての庭にクリスマスツリーが覗いていた。女優の卵の首元にかかるネックレスのように輝いているその豆電球の明かりを見るたびに、真白は火先の点いたままの煙草の火をその根元に差しておいてやりたくなった。そしてこの夜が明けたら、飾り立てられたクリスマスツリーとコードの付いた豆電球の電飾はみな、十二月の冬の浜辺に棄てられて、海の底へ埋め立てられるだろうと思った。明日の朝には世界中のクリスマスツリーから明かりが消え、撤去された豆電球のコードはいずれパッカー車の回転式プレス板に引きちぎられ、ゴミ焼却場の火の中で燃える。人々は何事もなかったかのように往来を歩きはじめる。悪くはないわ、と真白は吐き棄てるように言った。シリアルと、石鹸と檸檬の香りがする場所なんて、どこにも見当たらないもの。パンプスを一歩前に踏み出すたびに、真白はひとりで静かに真冬の夜の浜辺へ向かって歩いて行くような心地がした。そこには忘れられた十二月二十五日の骸たちが埋まっている。そして「彼女」が「いやったらしいアカ」、と呼んだものの中へと沈み込んでいった。
 アパートの方角は知っているはずなのに、帰り方がわからない。真白は三つに分かれた三叉路で、自らは曲がったことに気が付かぬまま、別の通りへと足を踏み入れていた。『一方通行』の道路標識の下には小さな地蔵石があった。その地蔵には顔がなく、古い編み笠が被せられていた。供え物のない赤い皿が一枚だけ置かれていた。麻紐で綴じられた名簿の目録が新聞紙の包みの上にあった。
 路地に入ると道の先で猫が真白の方を向いたまま、その場に静止しているのが見えた。三匹の猫、白、茶トラ、黒はどの猫も尻尾一つ動かさぬまま、その場を離れようとはしない。華やかな明かりの一切が落ちた家々。代わり映えのない無表情なコンクリート電柱の傍らで、路上に佇む三匹の生物の淡い影を眺めていると、まるで時がここで停まっていて、これ以上動かしようのない地点に立っているのではないかという錯覚に囚われる。猫は首を傾げたまま、十メートルも離れた先から見つめている。あなたはなぜここにいるの、と問いかけるような細い細い目で。真白が一歩踏み込もうとすると、猫は気配を察し、三匹とも一度に別々の方向へ、鼠花火のように散った。
 ――あの子たちに帰る家はあるのかしら、今晩のご飯は? 胸の奥深くに埋めて抱いてくれるひとは? 名前は?  
 猫のあとを追って路地の奥深くへと入り込む。児童公園の入り口に立つ。等間隔に植樹されたプラタナス、原色の装飾で覆われたひどくカラフルな滑り台、柵の壊された砂の遊び場。どこにでもある風景。真白がこの公園を見たことは一度もなかった。わたし、どうしてこんなところに立っているんだっけ。
 見知った街の、見知らぬ曲がり角をひとつ曲がっただけ。帰りたくても帰れなくなっただけ。神様がわたしのそばからいなくなっただけ。真白は公園の前を素通りする。振り返ると猫はもういない。唐突に現れる十字路の満月の下で、真白は一歩も歩くことができなくなった。秒針を止められていた猫たちの尻尾のように。わたしは、わたしたちは、時計の針から時間を盗みすぎた。ここは寒くて、息をするにもつめたくて、頭が痛い。真白は腕を降ろした。履き慣れたパンプスの踵さえ持ち上げていられない。靴を放り出した。未だに降りしきる氷点下のみぞれと一緒に、アスファルトの凹凸の上に溶けていく。わたしはもう、誰でもない。名前がない。よく分からない路地に裸足で倒れ込んだまま、車に轢かれるのを待っていた。誰かわたしを連れて行ってくれないかしら、あの白線の向こう側へ、そうすれば思い出せる気がするんだ。さあ、わたしをいますぐそこへ連れて行って、車輪でこの首を刎ねてくれれば、わたしはきっとそのときはじめてこの世に神様がいたんだと信じられる気がするの。
 ――ねえ、杏奈。わたしどうすればよかった? どうすればあなたになれた?
 奪われた名前。鏡の前に現れた別人。いつのまにか街から消えた少女。誰も覚えていない。ホリー・ゴライトリー、トラヴェリング。
 真白は路上に横たわったまま、頭上を仰いだ。星はひとつも見えなかった。ただ月だけがあった。その銀のひかりを穴が開くほど見つめ続けた。まるで聖クリストフォロスのメダルだと真白は思った。道の向こうで何かの車両のエンジン音が聞こえた。それは徐々に近付いてきた。センターラインを背に、腕を羽根のように広げたまま、真白は目を瞑った。月のひかりが眩しかった。あれはきっと天を覆う蓋に取り付けられた円盤のドアで、その扉を通じて、姿の見えないこびとたちがしかるべきときに迎えに来るのだと、幼い頃、真白は信じていた。いまでもそうかもしれない。ほんとうに、そうかもしれない。
「『何もかもが繰り返し。同じ事の繰り返し。何かを捨てちまってからそれが自分にとってなくてはならないものだったと分かるんだ』」
 みぞれが乾いた唇の上に乗った。舌で舐めても味はしなかった。温度も何も感じなかった。月のひかりでできた銀色の綿飴はきっとこんな味がするだろう。
 ――ねえ、もう何も思い出せないの。思い出したくないの。なにもわたしはわざわざ生きるためにここへ来たわけじゃないの、終わらせるためにここに来たの。カラスだってそうでしょう、彼等だって飛びたくて飛んでいるわけじゃないわ。彼等の居場所は空の中にしかなかったから、飛ぶように運命づけられていたから、飛ぶしかなかったのよ。ほかに理由なんてないわ。手すりから飛び降りることなんて簡単なことよ、生きることと死ぬことが等しかったらね。あなた、ビルの屋上からこれから飛び降りる街を眺めたことがあるかしら? 知っている? まるで天上と地上とがひっくり返るのよ、向かい合わせの鏡の縁に立っているみたいにね。そこに立ったら人間のことなんて忘れてしまう。みんな、忘れてしまうの。万華鏡の底にただひとつだけ放り込まれた哀れなガラス玉にひとの魂が宿っていたら、わたしはそのひとのことだけは分かるような気がするわ。出口なんてどこに行ってもないの。分かるのはただ怖いということだけ。足がすくんでいるのが、分かるだけ。終わることが怖いんじゃなくて、どこにも終わりがないことが怖いの。永遠に続くということが、怖いの。真っ白な雪の中で足跡もなく消えるということがどういうことか、あなたに分かるかしら? いいえ、わたしが望んでいるのはそれだけよ。わたしが神様に叶えてほしかった願いはそれだけよ。他のことなんて願ったことはないわ。もう二度とこの世に生まれてきたくなんかないの。たったそれだけ。名前も、猫も、愛してくれるひとも、わたしには必要ないわ。だってかなしくなるだけだもの。さみしくなるだけだもの。クリストフォロスのメダルだけをポケットにいつまでも持っていたって、しょうがないでしょう? 神様なんてあてにしてはいけないわ。いい、人間は何処まで行ってもひとりよ。永遠に、ひとりよ。たとえ目の前にあなたみたいなひとがいたとしてもね。じゃあね。

「ねえ、杏奈。わたし、怖いのよ、いまも。あなたがここにいないことが、怖いのよ」 

 そのとき、道の向こうで照明が光っていた。闇夜の中を一条の光が真っ直ぐに進んでくる。リトルカブのヘッドランプだった。カブのドライバーは路上に倒れている真白を認めると、三メートル手前で停車し、ヘルメットを外した。袈裟を着た坊主頭の若い僧侶だった。真白とほぼ同年代に見えるその男は、路上のセンターラインまでやってきて、しゃがみこんで尋ねた。
「大丈夫か?」
 返答はない。僧侶は深い溜息をついて携帯電話を取り出した。救急にコールを掛ける。僧侶は何度も俯くが、真白は指一本動く気配がない。
「ええ――、ああ、はい。道路の真ん中でひとが倒れてまして。怪我はないように見えるんですが、どうも意識がないみたいで……、あまり動かさない方がいいですね。え? 知人? いや、そういうのではなくて、行きがかりに。名前、ですか。膳田です。六丁目の交差点。目印は、近くにうちの寺があります。膳田寺です。門のすぐ前。はい、お願いします」
 膳田は通話を切った。倒れている真白に靴を履かせ、脇の下を持ってガードレール側の縁石まで引きずっていく。そのとき、真白のスーツポケットから首提げのストラップの紐が落ちた。クリップ留めの先には社員証が付いている。膳田は水溜まりに落ちたそれを拾い上げて素早く名前を読み取った。「真白杳」。生真面目そうな堅い面持ちで正面を向いて映っている証明写真。
「……眉がない、『ましろ、よう』?」
 膳田は首を傾げた。そして写真と名前とを見比べ、頭上を向いたまま一向に意識を取り戻さない、蒼白な真白の顔を、もういちど見た。
「知り合い。知り合いじゃない、知り合い」
 救急車のサイレンが通りの向こうから聞こえていた。現場に到着した救急隊員から状況確認の質問攻めに遭っている間に、真白は担架に乗せられて運ばれていく。すぐに後方ドアが閉められ夜間救急センターに向かって移送がはじまった。通りの彼方に消えていく一台の赤十字の車体を、膳田は無言で見送っていた。救急隊員から駆け足に礼を述べられたあと、誰もいなくなった路上で膳田はガードレールに腰掛けて煙草を吸った。
「何の因果かな……」
 側溝の下に落ちていった一本の煙草が、墓前に供えられた線香のように燻った煙を立ち昇らせていた。サイレンの音はまだ通りの向こうで鳴り響いている。

 真白が眼を覚ました時、目の前には壁があった。タイル模様の目地には川面に浮かぶ、微細な水紋のような波線が刻まれており、それが病院の天井だと気がつくまでにしばらく時間がかかった。個室に淡いブルーのカーテンが掛けられ、左腕には点滴の導管が伸びている。ベッド脇にはスーツの上下が畳まれたまま、百貨店の紙袋に入れられており、病院名の刺繍のある寝間着に着替えさせられていた。デジタル時計の目覚ましが無機質に時間を表示しているが、真白には日付の感覚がまったくないのだった。改めて自らの手足を検分するが、外傷らしきものはひとつも見当たらない。思い出せるのは、路上で立ち止まっていた三匹の猫、アスファルトが異様に冷たい氷の塊に思えたこと、そして月のひかりが頭上に落ちてきて、わたしをどこかへ連れ去ろうとしたこと、それくらいのことしか、真白には分からなかった。
 不意に病室のドアをノックする音が響いた。それは医師でもなく、看護師でもなく、同僚の楢崎ユキだった。
「具合はどう? 道端で倒れてたんだって? 隣人に心配を掛けるんじゃないわ」
「それはこっちの台詞。ユキ、うるさいから早く戸を閉めて。静かに喋って」
「後の方は無理」
 ユキはジャケットを脱いでベッドの上に放り出した。一番上のボタンは外したまま、はだけた恰好の紺ブラウス一枚になると、見舞客用に端に仕舞われていた椅子を引きずってきた。両手をアルミパイプの縁に乗せ、少年漫画の中で描かれる好奇心旺盛な少女のように座った。ユキは間の抜けたアヒルか鴨のように口角を上げて、小声で笑っている。
「なにを笑っているの。おかしいことでもあった?」
 ユキは返事をしなかった。しばらく間を置いてから、なんでもないわ、とユキは言った。
「今日って、何日?」
「何日って……もう三十日よ。み、そ、か、よ」
「晦日?」
「うん」
 ほとんど丸四日間、意識を喪いつづけていたらしいことに真白は眩暈がした。呆けた表情のまま、狐につままれたように前方を向いて固まっている。
「あんたの病状ね、お医者さんにも原因はまるで分からないんだって。心拍は安定していて、凍傷もなくて、体温低下もないのに、昏々と眠りつづけていたみたい。目を覚まして、とくに問題がないようなら社宅に戻ってもいいって。会社は二週間の休職。もう年の瀬だし、わたしが面倒をみててもいいんだって。隣人がわたしでよかったわね」
「……そう、どうもありがとう」
 ユキはつと壁の方を向いた。真白の視線がユキの座る椅子を向いているのではなく、壁を向いていたからだった。その壁には何もなかった。病院の個室にありがちな、毒気の抜けたレプリカ絵画の一枚、質素な花瓶に活けられた花一つなかった。真白は依然としてその壁を見つめ続けている。そしてユキが入室してから、その同僚の顔を一度もまともに見なかった。真白はほとんど壁に向かって話しているように見えた。
「ねえ、こんなことを聞いていいのか、分からないけれど、どうして真冬の路上で寝転んだりなんかしたの」
「あなた、壁に向かって話をしたことってある?」
「え?」
「壁に向かって話をしたこと、ある?」
「……ないわ」
「わたしね、誰かと話していても、ずっと壁に向かって話をしているような気がするの。目の前の誰が誰で、それがたとえ何であっても、どうでもよくなっちゃうの。ユキ、あなたは素敵なひとよ。こんな訳の分からない話をする、身寄りもない三十過ぎの女を心配してくれるんだから。そんな隣人は、他にはいないわ。でもね、どうしても駄目なの。わたしがどうして十二月の真冬のアスファルトに寝転ぶようなことをしたか、説明することはできないの。誰に対してもできないの。それが説明できるのは、ほんとうに部屋の中にひとりで、壁に向かって話をしているときだけなの。あの厚みのある、平板で、無表情な、何の返事も寄越さない、壁に向かって話すときだけなの。ねえ、そんな気持ち、分かってくれる?」
 分からないわ、とユキは言った。ほんとうに、分からないわ、とユキは繰りかえした。空調の音だけが聞こえる沈黙が訪れた。それは真白がもっとも欲していたものだった。ふたりは無言で白い壁を見つめ続けた。その色のなかに意味あるものはなにひとつなかった。なにひとつ。
 ユキは壁の柱から目を逸らし、立ち上がってジャケットを拾った。
「そう言えばさ、昨日、見舞い客がいたわ。あんた、坊さんの知り合いなんていたのね」
「え?」言葉を続けるまでに一瞬の間があった。知らないわ、と真白は眉をひそめて答えた。
 ユキはスーツパンツのポケットから一枚の名刺を取り出し、マニキュアを塗った爪の先で文字をなぞった。
「『膳田寺 住職 膳田誠』」
「かなり若い坊さんだったよ、ほんとに住職なのかしらね?」
「どういう意味?」
「昨日、喫煙コーナーですれ違ったのよ。キャメル吸ってたわ、それに真白、病室に入ってきたとき、あんたのことをどうも昔から知っているみたいだった。何だろう、あんたを別の名前で呼んだのよ、『ヨウコ』って」
 ユキは膳田の名刺を指で弾いてから、真白に手渡す。
「お坊さんは、皆そんな顔をするものよ。そういう、ひとと向かい合う職業だから。名前は単なる聞き違いじゃない? 似てるものね」
「……」
 困ったことがあったらすぐ連絡なさいね、そう言い残して、ユキは病室から出て行った。さっきユキから受け取った名刺をトランプの札でも配るようにベッドテーブルの上に滑らせた。背汗で湿気たシーツにくるまって、スプリングの弱い医療用ベッドに身を預け、もう一度天井の壁を見上げた。
「ハイライトはやめたんだ」

 遠くで除夜の鐘が鳴っている。病室の窓には点々と蝋燭の灯のような家々の明かりが映っている。繰り返される鐘の音に真白は耳を澄ませていた。あと何度、鐘が打ち付けられたら夜が明けるだろう。テーブルの上には昨日から置かれたままの名刺があった。それを拾い上げては、表裏を何度もひっくり返して確かめる。裏面には膳田個人の携帯番号と思われる数字が走り書きしてあった。角張った癖のある文字の書き方だった。何度も見たことがあった。教室の、彫刻刀の先で傷つけられた机の上で。
 ポケットから携帯を取り出し、番号を押そうとスクリーンに触れるたびに電源を落とす。医師には退院を暗に勧められていたが、真白はしばらくそれを拒んでいた。今更、あのアパートに戻って何になるだろう、わたしはまた暗い部屋の中でうわばみに呑まれていくだけだ。真白はベッドから起き上がる。使い捨ての底の薄い白スリッパを履いて、非常灯が灯る深夜の病棟廊下へ向かって足を踏み出した。とくに行く当てがあるわけではなかった。病室の扉を開けると、不意打ちのような廊下の空気の冷たさに頬が触れる。微かな動悸。閉じられた隣室のクリーム色のドア。時折、扉が半開きになっている部屋があって、そこから覗いている淡いブルーのカーテンの向こう側から、誰かの寝息が聞こえる。その寝息は寝苦しさに呻いているようにも、これまでの人生そのものを振り返って嘆くようにも聞こえた。手すりに掴まって真白は回遊魚のように廊下を廻りはじめた。ひとっこひとりいない待合室のソファ。ナースステーションにはわずかな照明が付けられているが、受付に立っているナースはいない。扉を閉めたスタッフルームの奥で談笑する小さな声が聞こえる。わたしはこの暗闇の中でひとりだ。ずっと、ひとりだ。深海の中で泳ぎ続ける魚みたいに。明かりのない、昏い、昏い、わたしは底にいる。
 廊下を延々と周回した。もう何週目かわからなくなった頃、自動販売機の明かりが偶然目に付いた。薄暗い人工的な光。冷却ファンの回る音。そのわずか二畳の休憩スペースの壁には緑色の公衆電話が二台、並んで置かれていた。ふかふかとしたワインカラーの丸椅子の座面を見過ごすことはできずに、真白はひとのいない休憩スペースに近付いていった。ポケットから小銭入れを取り出し、硬貨を放り込んで、ミルクティーを頼み、生き物のように温かいペットボトルを公衆電話の脇に置いた。ありったけの十円硬貨をかき集めてプラスチックのテーブルの上に小さな山を作った。そしてポケットから名刺を震える手で取り出した。受話器の前で時間だけが過ぎた。日付が変わろうとしていた。見上げていた壁掛け時計の針が揃った瞬間に、真白は受話器を上げて十円硬貨を次々に放り込み、名刺の裏に書かれた番号をダイヤルした。
 呼び出し音が続く。コールは十三度、鳴った。諦めて受話器を置こうとしたそのとき、スピーカーの向こうから、どこかで聴いた声がした。
「はい、もしもし。膳田です」
「……」
「膳田です」
「……」
「あの、ご用件は?」
「何て言ったらいいか、分からない」
「……」
「助けてくれないかな」
「え?」
「助けてくれないかな、困ってるの」
「……ええと。ましろ、さん?」
「違うわ」
「……知ってるよ」
「当たり前よね」
「あの、うちの寺に来てくれたら、お茶ぐらい出すよ」
「そう。ありがたい辻説法でもしてくれるんだ?」
「そういうのじゃないよ。ただの世間話さ」
「あんた、どうして坊さんなんかやってるの?」
「きみはどうして名前を偽ってるんだ?」
「さあ。昔の自分ではもうやっていけなくなったからじゃない?」
「そっくりそのまま、きみに返すよ」
 数秒の沈黙。先に切り出したのは膳田だった。
「今週末。日曜日さ、うちの寺まで来てくれないかな。門は開けておくから」
「……いいわよ。それと、あとひとつだけ訊いていい?」
「いいよ」
「ハイライト、吸うのやめた?」
 返答までに微妙な間があった。答えることをかすかにためらう一瞬の間。
「やめたの?」真白は繰り返す。
「やめたよ」
「……」
「やめたんだ」
「そう」
「そんなこと、訊いてどうするんだ?」
「別に。どうもしない」
「じゃあ週末に。また」
「ねえ、キャメルなんか吸わないでね。あの子にそれは似合わないからさ」
 通話は途切れた。膳田は最後までひとの話を聞かない。
――ハッピー・ニューイヤー。
 真白はそう呟くと、受話器を置いた。時計の針はいつもわたしを置き去りにする。既に温度の冷めたカフェオレのボトルが手のひらの中にあった。
――ねえ、杏奈。わたし、どうすればいい? 怖いんだ、ずっと。ひとが、わからないんだ。あなた以外には知らなかったのよ。どうして、みんな、わたしの前からいなくなるの。話をはじめようと口を開く、その前に。

 正月が明ける。真白は未だに病室を引き払うことなく、巣をつくったハツカネズミのように居座り続けていた。医師は困り顔で渋ったが、たまたま病床が空いていることを理由に、真白の滞在を期限付きで許した。真白は一度、アパートに戻ってノートパソコンを部屋に持ち込んでいた。マップを開いて周辺地域を調べ、夕方になると病院の門の外を散歩した。少しずつ病院の円周上の範囲から遠くを歩くようになった。病室に戻ると、仕事帰りのユキが立ち寄って話し相手になってくれた。
「ねえ、真白。この前、またあの坊さんを見かけたよ。ほら、助けてくれたひと。名前、何だったっけ?」
「膳田……?」
「そう、そのひとよ。でもほんとに坊さんらしくないのよね。このあいだ、また同じ喫煙所で見かけたのよ。ここよ、この病院の角。なんだか日中は街中をほっつき歩いている感じ。こめかみに剃り込みを入れて、袈裟を着ていなかったとしたら、いい年をした、ただの不良にしか見えないわ」
 真白は唇を閉じたまま、その口角を少しばかり上げた。
「どうして笑うのよ、わたし、何かおかしいこと言った?」
「いいや」
「あとね、その坊さんが吸ってる煙草のことなんだけど」
「うん」
「何となく、匂いが……、いや、やっぱりやめた。何でもない」
「何なのよ。気になるから最後まで言ってちょうだい」
 美幸は両腕を組みながら、僅かに首を傾げている。
「大したことじゃないわよ。そいつが持っていた箱は確かにキャメルだったんだけどさ、何となく微妙に違う匂いに思えたの。どこかで嗅いだことがあると思うな。でも、色んなひとが吸ってて、煙が入り混じっていたから、よくわからない」
「……ふうん」

 あとになって調べると膳田寺は病院から近くも遠くもない位置にあった。病院の敷地を出て歩いて約二十分から二十五分といったところ。倒れていた児童公園のすぐそばにあった。昔からある寺院ではない。
 元々、誠の父は寺の檀家で別の場所に代々、寺を構えていた。この街は真白の地元だったが、倒れた場所は別市に近い街の外れにあったので、土地勘はなかった。真白が高校生の頃には踏切と坂を越えた先にある駅前通りに住んでいて、その路地を入ったところに誠の実家である本家の寺があった。『何々宗の某派』と木製の立派な看板に墨入れしてあったのを覚えている。聞き慣れない宗派ではあったが、それは確かに存在しているらしかった。
 仕事からの帰り道、いつもその寺の前を通ったが、不思議と一度も誠には出くわさなかった。どうやらいつの間にか、誠は誠で分家して同じ街の別の場所に寺を開いていたようだった。それが膳田寺、というわけだった。
 平日の真昼に真白は誠の寺の前を通りがかった。何気なく、偶然その通りを歩いている通行人の素振りで。遠くから見ても門は空いていた。塀は低く、門の間からはお堂が中にひとつ、それに柵のある小さな濁り池、離れに庵らしき建造物が覗いていた。正統な流派の厳めしい門構えではなく、築年数の古い木造住宅並みの、とても簡素な造りの門だった。表札には「膳田寺」と申し訳程度に書かれてあるだけで、これでは何の寺なのかもよく分からない。そう首を捻っていると、真白の目の前をひとりの老婆が歩いて行った。手押し車で車輪を門の敷居をぶつけるように乗り越え、寺の中に入っていく。真白ははす向かいにあるコンビニエンスストアで煙草の箱を一箱買い、入り口脇の柱に身を潜めて往来をうかがっていた。老婆は門の中に入っていくとどうやら誰かと話をしている、尼僧だろうか。遠くから見ても目鼻立ちのいやにはっきりとした、それでいて日本画から抜け出してきたような淡い肌の白さが目に付いた。真白は、はたと吸い始めたばかりの煙草を取り落とし、壁に背を付けたまま動かなかった。駐車場のアスファルトの上に落ちたハイライトが、懐かしい匂いを漂わせたまま、真白のスニーカーのそばで燻りつづけていた。装束を被った尼僧は老婆と他愛のない世間話に応じているところで、からからとよく笑う老婆の声が門の外にまで響いている。尼僧の顔は、老婆とは対照的にアンニュイな笑みをこぼしているように見えた。その笑みは他人の空似というにはあまりにも似過ぎていた。真白はハイライトの吸い殻を右のスニーカーの底で踏みつけて、気が付けば膳田寺の門の下に立っていた。先ほどの老婆はどうやらスーパーで買ってきたばかりの大袋の茶菓子を尼僧に渡そうとしていた。
「誠さんにはいつも話を聞いて貰っとるんでの」
 白いレジ袋にはち切れんばかりに入れられたそれを尼僧は頭を下げて受け取った。
「こんなにいただいてしまって……、いつもすみません。夫も喜びます。またいつでもいらしてくださいね、お身体に気を付けて」
 老婆は茶菓子を渡し終えると、一仕事終えたように満足げに鼻を鳴らし、また敷居に車輪をぶつけながら、真白の脇を通り過ぎていった。包みを持ったままの尼僧と目が合ったのはその時だった。真白は亡霊を見る目で尼僧を見た。尼僧は首を傾げながら、真白の様子をうかがっていた。池の鯉が水面を跳ねる音がした。その音は真白の胸の内にひとつ小石を投げ込むように静かに沈んでいった。尼僧がゆっくりとした足取りで近付いてくる。鯉が棲み慣れた池を泳ぐように。迷いのない足取りで。草履が境内の砂利をかき分ける音がした。
「あの、どうなさいました?」落ち着き払った尼僧の声がする。真白は答えない。
「どうして、泣いているのですか?」

 たった四畳の庵の中で真白は尼僧と向かい合って座っていた。
「良人のご友人の方でしたか」
 真白は面を上げて、改めて頷いた。煙草の灰の色をした和服には黒い椿が控えめにあしらわれている。茶室には掛け軸が掛かり、梅の花の枝の上に二羽の青い鳥のつがいが描かれていた。有名な画師によるものではなく、誰かの手製になるもののようで、二羽の鳥は別れた枝を挟んで対になるように描かれている。左手には茶器の棚があり、部屋の隅にはくすんだ茶釜が置かれていた。尼僧は頭に被っていた装束を降ろした。隠れていた長い髪があらわになる。
「すみません、ご友人の方とは知らずに。わたくし、膳田誠の妻で美咲と申します。お名前、伺っても?」
「美咲さん、ですか。名前……、真白です。でもこれは本名ではなくて。誠の知っている名前でもないんです。事情があって、名前を一度、変えています。誠とは中学と高校時代の友人でした。正確に言えば、友人の、友人でした」
 美咲は柄杓で茶釜から湯を掬い、器に注いで茶を点てると、真白に和菓子とともに勧めた。
「どうぞ召し上がってください、これは先ほどいただいたものですが。この寺に来ていただいた方には、皆、お茶を出してお話を伺うんです。それが良人の職業というか、生き甲斐のようでして。わたくしもそれにならっています」
 美咲は首の横をわずかに掻きながら言った。真白は器を三度回し、勧められた深い色合いの抹茶を一口、含む。それから美咲に問いかけた。
「あの、あなたは、どこで誠と知り合いになったのですか。私、知らないんです。彼が、大人になってからのことは」
「実は、わたくしもよく知らないんですよ。こういう言い方は奇妙に聞こえるかもしれませんけれども」
 美咲はそう言うと、もうひとつの器を棚から取り出し、湯を注ぐと今度は自らのために茶筅を立て、話しはじめた。
「良人は過去のことをほとんど話したがらなくて。地方の大学を出てから、どこにも勤めず、しばらく夢遊病者のように暮らしていた、と言っていました。あの人のことだから、どこまでが本当で、なにが嘘なのか、分かりかねますが。でも、堅い職にありつけたとしても、きっと長続きするタイプじゃなくて。どうも浮き世離れしているんです。実家が檀家だったということも関係していると思います。檀家の息子ということで葬儀があれば、お坊さんとして呼ばれていたそうです。その収入で何とか食いつないでいたようで。だから良人と出会ったのも、お葬式のときだったんですよ。はじめて話したのは、葬儀場で出棺を終えたあとのことでした」
「葬儀場で? それは随分、何というか……変わっていますね」
「そうですね。以前、葬儀会社に勤めていたことがありまして。良人はその時、臨時で呼ばれたお坊さんだったんです。当日に経文を読み上げるはずだった別の僧侶が突然、熱を出して寝込んでしまったとかで。良人は、ご遺族の方とは檀家と在家というほかには何の繋がりも、面識もありませんでした。いつも通り、わたくしは会葬者を迎える受付の役割を終えて――その日は、参列者がほとんどいなかったものですから――会場の端で進行を見守っておりました。良人は神妙な面持ちで、遺体のお顔を見て手を合わせ、ほんの一握りの会衆に向かって深く頭を下げました。読経がはじまってずっと聴いていたんですが、何かちょっと普通とは違う声で――、大抵のお坊さんは読経を唱えて決まったお悔やみごとを述べて、火葬まで見送れば、それでお終いです。でも、良人は読経を終えてからも、そこから一歩も動かずに、じっと涙を流しているんです。少しも唇を曲げない、下手をすれば、微笑にさえ見える顔で、静かに泣いているんです。他人の、全くの赤の他人の棺の前で。葬式で泣いているお坊さんを見たのはそのときがはじめてでした。だから式が終わってすぐに声を掛けました。『大丈夫ですか』って」
 美咲は点て終えた茶から茶筅を引き上げて、器の中で回っている小さな渦を眺めていた。
「良人はこう言いました、『昔、大事なひとをなくした』『会葬にはふたりしか来なかった』『自然に寿命を全うした人間の葬儀なら何ともない、自殺で亡くなった人間の顔だけはまともに見ることができない』。まるで怯えた子どものような目をしているんです。その後、給湯室のシンクに向かって彼は吐きました。吐きながら、泣いているんです。一度も会ったことがない人間の葬式で、昔になくしたひとのことを思って泣いているんです。わたくしは、彼に向かって、『それはあなたのエゴです』と率直に言いました。『ご遺族に向き合うお坊さんがやることではありません。あなたは二重に人を殺している』と職業的倫理観から言いました。彼はこう答えました。『涙が止まらないのは、どうすればいい? 僕が泣いているのは、それを言うあなたが死んだはずの人間に似過ぎているからだ』と」
 真白は器を目の前に置いたまま、口は付けずに、その縁で小さな気泡が潰れていくのを眺めていた。それから、美咲の顔も見ずに尋ねた。
「美咲さん。ひとつだけ、伺ってもいいですか。あなたの旧姓、何ですか」
「芹沢です。従姉妹だったんです、彼女は」
 一度も会ったことはない、従姉妹でした、と美咲は言った。

「美咲に、会ったんだな」と誠は言った。
「いいお嫁さんを貰ったね。わたし、びっくりしちゃったわ」
 真白は買って貰ったペットボトルのほうじ茶に口をつけて言った。一月の河川敷の風は氷のようにつめたい。そしてどこか遠いところへ、見たこともない異国へと連れ去られるような潮の匂いがする。誠と真白は、堤防の土手にある少年野球のグラウンドのベンチで、並んで腰掛けていた。
「はじめて見たとき、杏奈が帰ってきたのかと思った。そんな訳ないよね、わたし、あのひとを見たとき、頭がおかしくなったか、気が違ったかの、どっちかだと思った」
「おれもだよ」
 半分、投げ槍な調子で返事をした誠は、両手を組み合わせたまま、真っ直ぐに前方を向いている。河川敷のテトラポッドの向こうに、隣町が見える。知らない人々の家の屋根。向かいの土手は相変わらず工事中で、十年経ったいまも何も変わっていないように見えた。停止したままの工事車両のシャベルが宙吊りになっている。ジャージ姿の少年が橋の上を駆けていく、小さな影が見える。群生したセイタカアワダチソウの穂。踏みつぶされた空き缶。地面に引かれたまま残っている石灰の白いライン。わたしたちは何が変わったろう、と真白は思う。
「ちょっと歩こう」
 ベンチから立ち上がりしなに誠が言った。真白は頷く。不揃いの、目の荒い砂利の上を、よろけないように歩いて行く。数歩先を歩く、誠の履いた草履と白い足袋が視界に映る。黒い袈裟の裾が揺れている。その脚は堤防を昇る石階段に掛かっていた。
「どうしたんだ、その眉」切れ長の目で、瞳を端に寄せた誠が尋ねる。ああ、これ? と真白は眉に指を当てた。
「何だかね、どうでもよくなっちゃったの。悲しくなったり、しんどくなったりしたときに、眉を剃るの。それだけ」
「それだけ?」
「……あの子の真似かな」
「杏奈はそんなに細くはしなかった」
「そうかしら」
「そうだよ」
 階段を昇り終えた真白は、先に堤防の上に立っていた誠に向かって尋ねた。
「ねえ、誠。わたし、尼僧になりたいって言ったら、笑う?」
 誠は振り返って、質問の真意を図りかねるように、きょとんとした顔をしていたが、やがてすぐに真顔に戻った。左手の薬指に嵌めた小さな銀の指環が太陽のひかりに反射して、真白の目の前で輝いていた。
「やめとけ。碌なもんじゃない。少なくとも、きみにとっては」
「どうして?」
「『どうして?』、目の前の現実が気に入らないからといって眉を剃り上げたり、別の誰かになるために名前を偽ったり、深夜の病院の公衆電話から昔の友人に助けを求めたりするやつが、思いつきでやる職業じゃないからだ」
「あら、ありがたいお説教ね」
「なあ、葉子。もうやめにしないか。何でもかんでも突っかかってきたり、茶化したり、いなくなったやつの話ばかりするのは」
 うんざりなんだ、と誠はポケットからキャメルの煙草を取り出して苛立ったように口にくわえた。
「寺の門の前を出たあとからずっとそうだ。きみは芹沢杏奈の話以外をまるでしようとしない。喫茶店を見て、ここは杏奈と通ったと言い、花屋を見て、杏奈が好きだった花を買い、三人で喧嘩をした空き地の前をわざわざ通って河川敷へ行こうとする。次は川の水面にコートのポケットに入れたままの勿忘草を落とすんだろう。それも全部、弔いのつもりで。でも、葉子。おれ達は感傷では生きられないよ」
 生きられないんだ、と誠は言った。
「あんただってそうじゃない。誠、あんたは絶対になりなくなかったはずのお坊さんになって、長かった髪も、眉も、なくなるまで綺麗に剃り上げて、杏奈のことは過去の記憶の底に葬って、そのくせ死んだ人間の従姉妹なんかと付き合って、結婚して、それで何かが変わったわけ? 馬鹿じゃないの。私たちはなんにも変わってなんかないわよ」
 なんにも変わってなんかないわよ、と真白は繰り返した。
 落ち着けよ、と誠は言った。無言のまま、二人は堤防に沿って道を歩いた。当てがある訳でもなかった。次第に舗装されていくコンクリートの道はどこまでも続くかに見えたが、「この先行き止まり」「立ち入り禁止」と書かれた看板とバリケードの前で、そこから先へは進めなくなった。
「あれ、ここ、昔は通れたよね?」
 真白は誠の挙動をうかがっていたが、誠はカラーコーンのバーを易々と踏み越えて、バリケードの狭い間を抜けた。
「付き合えよ」
「え、ちょっと。本気?」
 誠はバリケードの重しを少しずつ持ち上げて、隙間をずらして入っていく。その間から、手をひらひらと振っていた。
「早く」
 真白はペットボトルを小脇に抱え、ポケットに入れたままの勿忘草が潰れないように抑えたまま、バリケードの向こう側へと身を滑らせた。埋め立て工事が途中で止まったままの、まだ手の付けられていない橋の袂があった。太陽は沈みかかり、それぞれの頬を照らしている。足下はぬかるみ、草履やスニーカーの底を汚したが、誠は構わずに雑草をかき分けて川岸へと進んでいく。つま先が川の水面に触れるか触れないかというほどの水際に足をつけて、誠は遠くの岸を見るような目で川を眺めた。
「なあ、見ろよ。どうでもよくならないか。もしこの橋の上に留まっていたとしても、あるいは、川の底へ落ちていたとしても、それほどの違いがあるわけじゃない。ここは何も変わっていないんだ。杏奈は杏奈が担うものを受け止めただけだよ。おれらだってそうさ」
 波がコンクリートの縁を荒々しく打ち付ける音が聴こえる。川はいまにもすべてを呑み込むような緑青色で、その上を何もしらないカモメたちが羽ばたいて、嘴の先で生きた魚をくわえて獲っていた。誠は、何故か八重歯を見せて、笑っているように見えなくもない、奇妙な笑みを浮かべている。茜色のひかりが、プリズムを通したように川の水面で乱反射を起こしている。誰かの影が頭からそこに吸い込まれていく瞬間を、真白は思い描いた。こんな綺麗な午後に彼女はあの橋から落ちた。吸うか、と誠は駱駝の描かれた煙草の箱を差し出している。真白は川岸のそばまで歩み寄りはしたが、首を横に振った。
「吸わない」
 真白がコンビニで買ったハイライトの箱を取り出そうとすると、誠はその手首を掴んで押さえ込んだ。それから煙草の箱をもう一度、真白の前に差し出した。
「吸えよ」
「いやよ、私はこれ以外には吸わないの」
「一本だけ、当たりが入ってる」
「え? 当たり?」
「そう。当たり。運試しさ。きみが一回目で当たりを引いたら、おれは金輪際、キャメルを吸うのをやめる。きみはこの十本の中から、一本の当たりを引き抜けばいい。簡単だろ?」
「あんたが嘘をついている可能性は?」
「ない、とは言い切れない。だが、乗った方が面白いと思う。賭け事ってそういうもんだよ。これはただの余興さ」
 真白は十本の煙草のフィルターの先を丹念に眺める。色はほぼ同じでハイライトが入っているという保証はないように見える。目を瞑って引き抜くと同時に、誠が言った。
「残念、外れ」
「どうする? もう一回引くか、諦めて箱ごと川面に投げ棄ててこの茶番を終わりにするか」
「当たったら何かあるの?」
「別に。どうもしない」
「じゃあ何でこんなしち面倒くさいことをするの?」
「さあ、何でだろうね」
 ただおれが嘘をついているかどうかは、分かるよ、と誠は言った。
「あんたは嘘つきよ。昔からね」
 真白は手元で軽石を拾うと水面と水平方向になるように腕を構えて石を飛ばした。軽石はうまく川面を跳ねて、九回、水面を跳ねたあとに沈んだ。運、なんてものをまるで信じない詐欺師よ、と言葉は続いた。一本の新品のキャメルが真白の手を離れ、火を点けられることもないままに、水底に沈んでいった。
「ねえ、もう一回引いてもいい?」
「いいよ」
「これ」
「外れ」
「これ」
「外れ」
「これ」
「外れ」
「これ」
「外れ」
「……ねえ、ほんとうに当たりなんてあるの?」四本の煙草をまとめて川に投げ捨てると真白は尋ねた。
「さあ。火を点けて、確かめてみればいい」
「ちょっと貸しなさい」
 真白は煙草の箱ごと、誠の手から奪い去ると残った五本の煙草をすべて手のひらの上に出した。どれもキャメルの巻紙だった。
「何だ、あんた、私を騙してたわけね。最初から当たりなんかないんだ」
「おれは嘘つきだけど、嘘をついていた訳じゃないよ」
「なによその言い草」
「きみは火を点けて確かめなかった」
「は?」
「きみが川に投げ捨てた煙草の中に、ハイライトがあったよ」
「あんた、外れって言ったでしょ?」
「もちろん。嘘つきだからね。でも、すべてに嘘をついたんじゃない」
「それすら確かめようがないじゃない。もう沈んじゃったんだから」
「そうだよ。おれの言葉を信じたきみは、自分で火を点けて確かめなかったんだ」
「それが何なのよ」
「ちょっと貸して」
 誠は真白の手元にあった煙草を引き戻し、手元からライターを取り出して火を点けた。煙がわずかに立ち昇り、火先が仄暗く明滅する。
「これ、何の匂いがする?」
「……ちょっと、どういうこと」
「きみが引いたのは『当たり』さ。全部、十本とも、『当たり』だったんだ。ひとつひとつ巻き直したんだよ。ハイライトをキャメルの巻き紙にね。なのにきみは次から次へと川へ投げ捨てた。おれにはきみがそれを吸う勇気がないだろうと分かっていた。川の下で眠っている杏奈もきっと喜ぶだろう。好みの煙草が五本も吸えるんだから」
「あんた、何が言いたいわけ?」
 誠は川の空気を胸いっぱいに詰め込んで、淀みなく喋りはじめた。まるで誰かのことばを川の底から聞いているみたいに、一息に。
「きみがやっていることも同じだって言いたいんだ。きみの前に差し出されているものがあるのに、きみは頑なに受け取ろうとしない。それは、きみや杏奈が好んだ『ハイライト』じゃなくて『キャメル』だからって理由で、火を点けようともしない。きみはその気になれば、何回だってくじを引くことができるのに、まるで受け取ろうとしないんだ。おれみたいな詐欺師に昔、騙されたことがあるって言うんで、あとに引くくじもみんな外れだと思い込んでいるんだ。全部、キャメルか何かだと思ってるんだ。いいかい、ほんとうのことを言うよ。煙草が『キャメル』か『ハイライト』かなんて、どっちでもいいんだ。それが『当たり』か『外れ』かなんてどっちでもいいんだ。杏奈が橋の上に残って『生』きようが、手すりから落ちて『死』のうが、どっちでもいいんだ。きみが人生に疲れて眉を剃り落とそうが、剃り落とすまいが、どっちでもいいんだ。元の名前を憎んで、棄てようが棄てまいが、どっちでもいいんだ。世の中を見限って、尼僧になろうがなるまいが、どっちでもいいんだ。みんな、火を点けて確かめようとしているだけなんだ。それでも火を点ける前から決まっているように見えるものごともあるよ。結果は火を見るより明らかと思えるできごともあるよ。この世界で、杏奈はどうやったってやっぱり『当たり』を引いて沈んじまうし、きみは運良く『外れ』を引き続けて助かったのかもしれない。でもね、仮に十本中の十本が『当たり』か『外れ』である世界であったとしてもだよ、それでも君はそれにちゃんと火を点けなくちゃいけないんだ。それが消えて元の灰や塵芥になってみんな宇宙の彼方に消しとんじまうまで、見届けなくちゃならないんだ。何でかって、ほんとうに「それ」が、君の思うような「それ」であるかどうかを分かるためにだよ。頼むから新品の煙草を確かめもせずに淀みの中へ放り込むようなことはやめてくれ。ちゃんと味わい尽くして、燃え殻になるまで吸ってくれ。杏奈は最後までこの世界のことを『外れ』である方に賭けたから、川の底に沈むことを選んだんだ。でもほんとうにそうか? この世界が杏奈やきみの思うように『外れ』だって言い切れるか? あるいは『当たり』であったとしても、だから何だって言うんだ? この世界に『当たり』も『外れ』もない、どっちでもいいさ、ただの世界だろ。違うか?」
 そう言って誠は煙草にもう一度、火を点けて葉子に渡した。葉子は静かに煙草を受け取って、肺の奥にまで吸い込んで、タールのにおいがする煙を思い切り吐き出した。灰色の煙が二つの巻きたばこから流れていた。誠からライターを受け取った葉子は、ポケットから勿忘草を取り出し、火を付け、川に投げ捨てた。
「ねえ、わたしたちは『陽の当たる場所』へ行きたかっただけよ」

――ただそれだけだったのよ、葉子。信じてくれる? 

 二本のハイライトの煙は、川岸の風にあおられて、青い火の灯のように揺らめいていた。陽は沈み、水面には夜の女王のような冠を抱いた白い三日月が、淡い銀のひかりを鏡のように浮かび上がらせている。
「わたしは、誰かがここに、いてほしかっただけなの。この世界にとってどっちでもいいことも、わたしはどっちでもいいと思わなかったの。それはわたしが選んだの。神様じゃなくて」
「この世界に神様が、いても、いなくても、どちらでもよかったの。あの子さえいればよかったの」
「でももう終わってしまった。あの青い火が消えたら、大事なひとはいつも河の向こう岸に渡って、煙みたいにいなくなるんだ。わたしは灰ばかりを眺めて生きることになる。そうよ、みんな、みんな灰になればいいんだ。わたしも、あなたも、杏奈も、猫も、月も、河も、夜も、クリストフォロスのメダルも、時計も、ハイライトも、キャメルも、勿忘草も、壁も、十字架も、神様も、世界も、いつかみんな、行ったことのない、遠い海の向こうで、名前のない、灰になればいいんだ」

――あなたは生きてね、さよなら、と杏奈は言った。

「ねえ、ずっと月明かりの下で暮らしているような気がするわ」

 陽の暮れたばかりの川面に煙の消えた二本のハイライトが浮かんでいた、それはまるで重なり合ったひとつの十字架のように見えた。

                            (了)


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