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ポメラ日記39日目(読み手に分かる言葉で小説を書くこと)


 
 作品を書いていてずっと疑問に思っていたことのひとつに、なぜ分かりやすい言葉で書かなくてはならないんだろうか、ということがあります。プロのインタビューなどを読んでいると、ほとんどの作家が読者にとって分かりやすい、平易で簡潔な言葉で書くと答えていて、何となくその言葉を聞いて引っかかっていた時期があります。小説が芸術の表現なら、書き手が選びたい言葉を選べばいいじゃないか、どうして分かりやすく書く必要があるのか? ということが疑問だったんですね。

 この疑問に端的に答えるなら、それは作者が読むものではなく読者が読むものだからということになりそうですが、僕なりに納得する理由みたいなものを見つけておきたかったんです。

 この疑問を解決しようとするときに役立ったのが友人から貰った本でした。『心をととのえるスヌーピー 悩みが消えていく禅の言葉』という本で、一見すると小説とは何の関係もない本ですが、分かりやすく書くことへの手がかりというかヒントを貰ったんです。


友人から貰った大事なスヌーピーの本。
禅と小説は畑違いだけれど、思わぬところに小説のヒントが埋まっていた。



 この本は、禅の観点からスヌーピーのコミックを読んで、禅語を楽しく学んでみようという本です。僕は『Peanuts』が好きなので貰ったときに素直に嬉しかったんですが、最初のページに書かれていた禅語に『喫茶喫飯』という言葉が載っていました。

 『喫茶喫飯』というのは、お茶が出てくればお茶をいただき、飯が出てくれば素直に飯を食う、ということを表していて、お茶を飲むときはお茶を飲むことだけを考えること。せっかく出して貰ったお茶よりもコーヒーの方がよかったなとか考えたりしないで、その行為だけに集中していなさい、という意味です。行為している以外のものを考えはじめるとその瞬間に相対的にものを見るようになってしまって、絶対的な境地には立てなくなるから、ということらしいです。

 僕はこの言葉を聞いたときに、こんなことを一体誰が言い出したのだろうと、『喫茶喫飯』を言ったひとに興味を持ちはじめたんですね。それで調べてみるとこれを言ったのは、曹洞宗の禅僧である瑩山(けいざん)禅師という人物であることが分かりました。

 禅の寺などで、師匠から弟子に向かって問答が行われることがあり、弟子であった僧侶は師匠筋のひとに認められてはじめて、そのお寺を継ぐことができるそうなんですが、『喫茶喫飯』という言葉が出てきたのは、まさにこの問答の最中に出てきた言葉であるようです。

 この曹洞宗の僧侶は、悟りを開いたことを師に向かって証明するために、何を悟ったかということを伝えたそうなんですね。その言葉が、「黒漆の崑崙、夜裏に走る(こくしつのこんろん、やりにはしる)」という言葉であったそうです。

 「黒漆の崑崙、夜裏に走る」の意味は、暗闇のなかで正体の掴めない黒い物体が走り抜けていくさまを表しています。夜の闇のなかを黒い物体が走って行っても、それは確かに見えないし、その姿を捉えることはできないけれど、だからといってそれが無いわけではない。

 人間に「見える」とか「見えない」とか、そういう分別をしないでものごとを見るようになることが悟りに近づくことだという意味らしいです(※僕は禅の正確な知識を持っていないのでかなり曖昧な解釈をしています)。

 とはいっても、この言葉だけを聴いて意味まで理解できるひとってたぶんほとんどいないんですよね。ネットにある解説を読んでも、「黒漆の崑崙」? なんのこっちゃ? という感じで、どれだけ言っていることが正しくても、日常に使うような言葉じゃないから、意味が頭のなかに入ってこないんですね。

 たぶんこの禅の師匠筋のひとや、禅の道に明るいひとであれば、「黒漆の崑崙」とか言われても言っていることが禅の理論的に正しいということは分かるんでしょうが、門外漢の僕らからすると、数式の記号や暗号でも渡されたような感じで、それがいくら正しいと証明されていることであっても、言っていることのありがたみが伝わってこないんです。

 禅の師匠筋のひともその辺りのことは分かっていたのでしょう、その答えでは不十分だから、さらに言え、と言うんですね。そこでこの曹洞宗の僧侶が出した答えが「喫茶喫飯」だったと言うんです。

 「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」という答えであれば、お茶が出てきたときにはお茶をいただくことだけに集中する、ご飯を食べるときにはご飯を食べる以外のことを考えない、ということで、これだと知らない人間にも伝わるものがあるんです。

 自分や禅に明るい人間だけが悟ることを考えるなら、べつに「黒漆の崑崙」でも問題はなかったんですが、それをまだ禅について何も知らないひとに広めたり、相手にも悟らせようとするなら、きちんと相手にも分かるような言葉に落とし込む必要があるんですね。

 文学でやることも同じだと思ったんです。頭のなかで想像したストーリーや物語をひとりで楽しみたいだけなら、べつにどんな言葉を使ったっていいんです。難解な言い回しが好きならいくらでも使えばいいし、それが自分に読めさえすれば文章として成立していなくてもいい。

 でも、物語を書いて誰かに読んで貰おうとするのなら、その自分だけに伝わる表現では駄目なんです。「黒漆の崑崙」では、足りないんです。そこでもっと踏み込んで、少なくとも相手にも分かるような言葉で書かなくちゃならない。

 そこで僕は、小説は相手に分かるような言葉で書かなくてはならない理由をちょっぴり納得したのでした。 
 
 2023/05/24 21:04

 kazuma

「なぜ、読み手に分かるように書く必要があるのか」ということについて、僕なりに考察してみたことをブログにまとめました。同じ疑問で引っかかっていたり、興味のある方はお読みください。

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