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「ポメラ日記38日目(原稿の進捗、GWの課題図書、ナボコフとドストエフスキー)」

・原稿の進捗


 こんにちは、kazumaです。しばらくネットから離れて原稿を進めていました。一応、GWが締め切りのつもりで書いていたのですが、まだもう少し執筆時間が必要になると判断したので、一旦、noteに戻ってきました。

 進捗としてはストーリーは終盤まで来ていて、残りあと3分の1くらい、文字数で言うと3万字程度のところまで進めています。執筆の途中でnoteからの通知が来て、「創作大賞(2023)」が今年もコンテストとして開催されるようなので、間に合うようならそこにぶつけてみようかなと思います。

 GWで完成予定だったんですが、今回は執筆時間の確保がやっぱり難しかったなと思います。平日は週5、6日はライティングの作業で詰めていて、週末は友人と会う日がほとんどなので、実際に作品を書ける時間は、ライティングが終わってからの夜ぐらいです。

 元々、僕は夜に執筆するのが好きなタイプだったので、書くときは部屋の灯りをみんな落として、机の上のランプだけを灯して書いています。グラスに氷を5、6個放り込んで、浄水器で漉した水を流し込み、延々とお冷やを飲みながら、ひとりであーでもないな、こうじゃないなとやったりしています。

 この二週間、小説だけに集中するつもりでやったのですが、ときどきこういうポメラ日記のような日々のことを書きたくなったり、ブログで読んでいる本のことを書きたくなったりしました。

 今回、自分で締め切りを設定して書き上げようとして、GWには間に合わなかったわけですが、これがもしプロの締め切りだったとしたら、ほんとうに洒落にならないなと思います。僕はやっぱり商業作家にはなれないし、そういう書き方は向いてないんだろうなということを改めて確認しました。

 僕がしたかったのは、小説を書いてお金を貰って食べていくことではなくて、どんな仕事でも構わないから食いつないで、それでも書くことを止めずに続けていくことだったので、これでよかったのかなと思います。

 文学の話がしたかったらブログやnoteで書けるし、誰かと繋がりたくて書いているわけでもないので、どこまでも一人で歩けるところまで歩いていけばいいやと思っています。純文学もどきの文章を書いて、どこかで賞を取って、小説一本で食べていけるなんて思ったりはしません。

・GWの課題図書、『ナボコフの文学講義』『ナボコフのロシア文学講義』


 ところで、GWの課題図書として読んでいる本が二冊ありました。両方とも同じ作家の本で、『ナボコフの文学講義』と『ナボコフのロシア文学講義』です。以前に学生街のブックオフでナボコフの『ディフェンス』の単行本を手に入れたことがきっかけでした。

 これまでナボコフには何となくとっつきづらい作家というイメージがあって、手を伸ばしてこなかったのですが、『ディフェンス』はチェスにまつわる小説で、単行本版は小川洋子さんが帯文を書かれていたこともあり、何となく興味を惹かれました。

 せっかくなので、ナボコフがどういう風に小説のことを考えているのかを知りたかったこともあって、今回、『ナボコフの文学講義・ロシア文学講義』の上巻を購入して併せて読む、ということをやってみようと思ったわけです。

 先に読んだのは『ロシア文学講義』の方で、なぜかというと、ちょっと知りたいことがありまして。僕は学生の頃にドストエフスキーの作品を読んでいたことがあって、『地下室の手記』なんかも読みながら、けっこう感情移入できてしまったところがありますが、ナボコフはこのドストエフスキーのことを三流作家と言ってばっさり切り捨てます。

 ついでに言うと、ナボコフはこういった登場人物に感情移入したり、主人公を読み手の人生になぞらえたりするような読み方を明確に否定していて、そういうような低俗な読み方はしてもらいたくないと、講義の相手である学生たちに向けて話しています。つまり僕はナボコフから見れば低俗な読者の範疇に入るわけです。

 陳腐なことを飾り立てるのは二流の作家に任せる。彼等には世界をふたたび作り上げることなど念頭にない、ただ規定の事物の世界から、慣習的な小説様式から、可能なかぎりの甘い汁を絞り出そうとするだけのことだ。二流の作家がこのような決められた限界内で生み出しうるさまざまな組み合わせは、かげろうのようにはかないが、それなりになかなか面白い。なぜなら二流の読者というものは、自分と同じ考えが心地よい衣装をまとって変装しているのを見て、快く思うものだからである。しかし、本当の作家、惑星をきりきり舞いさせ、眠っている人間を造形しては、その眠っている男の肋骨を熱心にいじくりまわすような人、そういう種類の作家には、自分の自由になるような既製の価値はなに一つないのだ。

『ナボコフの文学講義』ウラジーミル・ナボコフ著 野島秀勝訳 河出文庫(2013)p.53より引用

・疑問:ナボコフはなぜドストエフスキーを忌み嫌うのか?


 ドストエフスキーは悪文家として知られていますが、借金取りに追われるようにものを書いて、口述筆記まで使って書いたのだから、美文にならないのは当たり前のことのように思います。ロシア語はもちろん読めないので、原文がどのような印象を与えるものなのかは判りかねますが、他国では翻訳によって文章がならされたものになるので、日本をはじめ、本国以外の方がよりドストエフスキーの作品が親しみやすいという事情があったようです。

 GWでは『ロシア文学講義』のドストエフスキーの項だけを拾い読みして、『文学講義』については『良き読者と良き作家』を読んだところですが、ナボコフには芸術至上主義のようなところがあるのではないかと思っています。

 作品における感傷性、読者の感情に訴えかけようとする安っぽいドラマ、一度タネや筋が分かれば面白くなくなってしまう探偵小説、作者が作品に故意に込めたメッセージ、シリアスな哲学的テーマ、そういったものはナボコフの考える文学のなかにはなく、そういう過去に使われた技巧は徹底的に排除した上で、作品を書いたのだろうと思います。

 ナボコフはロシア出身の作家で世代的にはちょうどドストエフスキーの一世代後ということになります(ドストエフスキーは1821-1881、ナボコフは1899-1977)。ドストエフスキーのことをここまで忌み嫌っていながら、ナボコフがドストエフスキーの作品について精査していたことには、やっぱりそれなりの理由があったんじゃないかと思います。世代的に言うと、ナボコフはおそらくドストエフスキーを礼賛するロシア文壇を前に、これから新進作家として亡命しつつ身を立てなければならなかったわけで。

 ナボコフは何か文学上の理由からドストエフスキーの方法論を乗り越える必要を感じていたのではないか。でないと、ここまで批判に執着する理由が見えないんですよね。 

 ナボコフの基準で言うと、排除されてしまう文学ってかなり多く存在すると思います。文章が美しくないから、作品がこういう構造をしているから、それはもう十九世紀までに使われている手法だから、手垢の付いた表現だから、感傷的な語り口だから……。

 どうも文学的に潔癖症のところがあるんじゃないだろうか。そうすることによって過去の何ものに寄り掛からない立ち位置を探し当てたように見える。ナボコフが「ポーシロスチ」って言ったあとに残る小説がどれくらいあるんですかね。

 仮にそうやって書かれた小説がナボコフにとって完璧な小説であったとしても、それが果たしていい文学と言えるのだろうかという問いがあります。芸術的な意味で、他の誰にもまねできないことをやった、新しいものを生み出した、という点では確かに優れているのかもしれませんが、僕はちょっとドストエフスキーの肩を持ちたくなりますね。

 いくら手垢の付いた表現で、十九世紀以前の古くさい手法で、構造だって一度タネ明かしすればおしまいの探偵小説であったとしても、いいものはいいっていう時があるんじゃないかと思うんですよね。完璧主義のナボコフから見れば、至るところに欠陥だらけの文章で目も当てられない、ということになっても、それでもなおひとを惹きつけずにはおかない小説って僕はあるんじゃないかと思う。

 ナボコフは確かに理論的には『ナボコフのロシア文学講義』で完膚なきまでにドストエフスキーを否定することに成功しているように見えるけれど、それはナボコフの文学的基準から見た場合であって、何かを取りこぼしたんじゃないかという気がする。おそらくはその文学的な潔癖さと引き換えに。 

 ナボコフの文学論の網目から抜け出る方法を探すために『ナボコフの文学講義』を読んでみようと思っています。書き手は常に新しい表現を模索して、誰も表現していなかった表現にたどり着いたときに作家になるものだと思うけれど、ナボコフがおそらく定義せずに見落とした、ドストエフスキーの良さというものがあったんじゃないかと僕は疑っている。

 世界的に見て、おそらくナボコフよりもドストエフスキーの方が読まれていることに対し、ナボコフならそれは読者のほとんどが二流の読み手だからのひと言で片付けるだろうけれど、どうもそれだけじゃ済まない気がするんですよね。ここまで開くのには、何かそれなりのわけがある。

 文学って常に新しい表現で、作家固有の世界が文章で展開されていなかったら成立しないものだとは思いますが、その新しい表現にたどり着くために、犠牲にしたものもあるんじゃないか。過去の誰もやっていないやり方で小説が書けたら、それだけで文学的に価値のあるもので、それこそが小説を書く意義だという理屈は分かるんですが、それが読者から見たときにいい小説かどうかっていうのは、また別の問題なのではないかと思っています。

・新しい小説はつねにいい小説と言えるのか? 新しい表現を生み出すことだけが文学の価値か? 


 毎年、純文学の世界では技巧を凝らした新しい作家が誕生しています。新刊書店で本を立ち読みすると、いままでにあまり見たことのない文体に出会うこともあります。そういうものに出会ったときの驚きは確かにあります。でも、もし僕が普段からそういう本を読まない人間だったとして、それでも届くものがあるか、分からないんですね。ひょっとすると、だいぶ本を読み慣れたつもりの人間であってもつかみ損ねる面白さであるかもしれない。

 そういう風に玄人にしか分からないような表面の技巧の面白さばかりを突き詰めていくと、その小説について理解できるのは世界でほんの数人しかいないということになりかねないんじゃないかと思うんですよね。ジョイスのユリシーズまではぎりぎり読めても、フィネガンズ・ウェイクには理解が及ばない、というような。ナボコフが『青白い炎』でやったことも同じじゃないんですかね。ナボコフは過去に『読者のことなんか考えていない』と発言していたようで、それだけの才能と自信を持ち合わせていたのは間違いないですが。

・たとえ意味が分からなくても美しいと感じる小説はある



 僕はサリンジャーの『バナナフィッシュ』の話が好きで、何度も読み返していますが、いまだにあの話を分かった試しはないんです。でも、読み返してしまう。その話の意味を理解できないにもかかわらず、それを美しいと感じたり、いいものだと思ってしまう。そこに書かれていることについては理解が及ばないのに、それがいいものだってことは分かるんです。でも、もしあの話がただ技巧的に新しいものであるだけだったとしたら、単にシーモアが拳銃をこめかみに打つだけの、訳のわからないだけの話で終わったんです。でも、実際にはそうなっていない。少なくともサリンジャーは、読者に対して理解不能なものごとを語っているにもかかわらず、あの物語を通して何らかの真実味があることを伝えているように感じるんです。それは分からなくても、こちらにぽんと渡されてしまう。これはいったい何なのか?
 
 つまり僕が言いたいのは、単に表現が過去の誰も使っていない、新しい表現であるだけでは片手落ちで(純文学ではそれで十全ということになるようだけど)、たとえそこで語られる物事が読者にとって理解不能な出来事だとしても、それでもなお読者の眼前に投げ込まれ、真実味のある話として手渡される物語が、いい文学なのではないかと思っているのです。

2023/05/09 17:53
 
 kazuma

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