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『赤い風船、笑うピエロ』

 遊園地の一角で、赤い風船がひとつ、子どもの指先を離れ上空へと向かって昇っていった。
「おかあさん、あれ!」
 デニムのつなぎを着た少年は、いまにも泣き出しそうな顔でつま先立ちをし、飛んでいった風船を指差している。西洋風の造りものの城の壁を這うようにして、風船は高く昇っていく。その少年の傍らでピエロの格好をした、太田という男が、なすすべもなく頭上を見上げていた。
 パレードの号砲が鳴り響く。指を差していた少年は途端に目を見開き、たったいま正気に戻ったかのように、背筋を伸ばし、母親の手を引いて、メインストリートの向こう側へ向かって歩き出した。ちょうどマスコットショーの行列が、通りを歩き始めた頃だった。
 太田は着ぐるみの中から覗く、細いピンストライプの孔から、まだ割れていない、少年から忘却された赤い風船のあとを追っていた。ヘリウム風船は、しばらく窓の庇に引っかかっていたが、間もなく風に煽られて、にべもなく尖塔の先にひとりでに刺さり、唐突に割れた。
 ピエロの着ぐるみを着た太田のそばから、ひとり、またひとりとこどもたちはいなくなっていく。真昼の太陽がまるで太田の立っている場所にだけ、光を注ぐことを止めたかのように雲間に隠れ、側に植えられた木立の影の下でひとり、太田は肩を落として立っていた。エントランスのそばに集まっていた客たちが、小声で何事かを囁き合っている。多くは、着ぐるみのピエロである太田を、遠巻きに眺めているだけだ。若い母親たちが、太田の前を通り過ぎながら言った。
「あのピエロ、何か変じゃない?」
「そう、元気がないっていうか……」
「ああいうのって子どもに夢を与えるのが仕事でしょ?」
「せっかく楽しみにきてるんだから、暗いよね。うちの子どもも怖がっちゃってさ。全然寄り付かないの。いつもだったらこんなことないのにね」
「あっ、向こうでパレードはじまったみたいよ」
「もう行こっか」
 三人組の母親たちは、そうしてその場を立ち去った。太田は仕方なく、諦めたように、手に持っていた風船の糸を、噴水の柵にくくりつけた。それからちょうど大通りに面した、赤いコカ・コーラのアルミベンチに座り、沈み込んだままでいた。ピンストライプの孔の間から、地面を這って進む蟻たちの行列が見えた。誰かが落としたアイスクリームコーンの欠片が音も無く運ばれていった。俯いた太田の前を、銀色の髪を持った少女が当て処なく歩いていく。
 噴水の周りで、何度も執拗に鳴るシャッター音を聴いて、太田は顔を上げた。顔を上げた途端、辺りに嗤い声が響いた。制服を着た学生達のグループだった。彼らは決して太田の側には近寄ろうとせず、まるで見えない境界で隔てられたピエロを外側から観察するように、スマートフォンのカメラを、銃口のように、これみよがしに向けていた。太田がただその場に俯いて座っているだけで、彼等は可笑しくてたまらないといったように、笑い転げていた。そうして、しばらくして別の一団がやって来ては、似たようなことが繰り返された。太田は着ぐるみの、輝いて見えるようにプリントされたその目の孔から、淀んだ瞳で、一連の出来事を眺めていた。ふと顔を上げると、どこまでも晴れて広い空が広がっていたが、太田にはそれが間の悪い冗談か、ウィットの欠片もない皮肉のようにしか見えなかった。
 パレードの喧噪は、人々を焚き付けるような太鼓の音と、衛兵の恰好をした楽隊のラッパの行進で、いやにも増していき、パーク内のひとというひとをかき集め、沿道に立つひとびとは皆、大声を発して笑っている。ウェスタン・ヒーローが、ピストルから号砲を上げ、悪役のスカーフを着けた盗賊達が、ばたばたとアスファルトの路上に倒れ込む。どこからともなく現れたヒロインが、ガンマンのそばに駆け寄ってきてマスコットたちの即興劇が終わる。観客は割れんばかりの喝采を送り、その喧噪から遠く離れたパークの入り口に立っているピエロを振り返る人間は誰もいない。
 太田は黙ってベンチで足を組んで、束の間の休息を取った。もちろん大仰に、いかにもピエロがやるような振りをして、大袈裟に頭を振り、足を必要以上に高く上げながら。ひと気のないベンチで、噴水の水が溜まったプールの底に落ちていく音を太田は聴いていた。そうすれば、馬鹿げたひとびとの声を思い出さなくて済んだ。誰でもない、ただそこに偶々あるだけの音が、太田の耳に心地よく響いていた。植樹されたプラタナスの枯れ葉が、頭上をくるりと旋回しながら飛んでいく。あとには、零れた刃のような枝ばかりが残った。風はつめたく、季節はもうすぐ冬だった。太田は尻を払い、ベンチから立ち上がった。 
 柵の向こう側には、太田の暮らす街があった。小高い丘の上の遊園地で、ピエロの恰好をしたまま、一人の友もなく、思い出すものごともなく、ただ日が暮れては戻ってゆくアパートの錆びた扉のことだけを、太田は思い描いていた。どちらが昼で、どちらが夜だったか、太田には分からなかった。このピンストライプの眼から覗く景色も、床に就き、瞼を閉じては立ち現れる幻影も、太田にとっては、度の過ぎた笑えないジョークに等しかった。さっさと皆、消えてしまえ。こんなものは性の悪い誰かが生み出した冗談だ。太田はそう胸の内で叫びながら、浮かれた夢を見上げては笑う群集を背に、ただひとり正気を保とうとするピエロのように、その場に立ち尽くしていた。狂っているのは目の前を進んでいく行列か、それとも己れか、分からぬまま。
 終業時刻までまだ間があった。地方都市のそこそこ名の知れたこのパークは、パレード時にはひとがはけて中央部に集まる。太田は腹が鳴ったことに着ぐるみの中で気が付き、そそくさと休憩所へ向かった。昼食は取っていなかった。馬鹿みたいに脚を上げて、園内をひとり行進する。辺りにどう見ても人影はないが、ピエロの振りをしていなければ、金は貰えない。この歩き方は採用前の研修で教えて貰ったものだった。太田にその歩き方を即席で教え込んだのは、ほんものの大道芸人であり、プロのパフォーマーだった。
「お客さんが笑うために、ピエロが一番笑っていなくてはいけない。たとえ出演の当日の朝に、どんなに悲しいことがあったって、笑っていなくちゃいけない。だから、誰よりも高く脚を上げて、腕を思い切り上げて、園内を歩いてください。悲しくても、笑ってください。泣いていても、笑ってください。私らの仕事は、そういう種類のものです」
 パフォーマーの名は、安堂と言った。研修中の合宿所で、フルネームを検索すると、有名な劇団に所属し、公演シーズン以外では、パフォーマンスの講師や路上で大道芸を披露する、その道では名の知られた人物だった。太田はその場しのぎに食いつなぎにきた着ぐるみのアルバイトで、他の研修生たちが熱意のある返答をする中、口を開けたまま、無表情に前方を見つめていた。道場のようなその場所には、『笑顔、感謝、前進』とスローガンが書かれた掛け軸があって、太田はただただ閉口するばかりだった。研修後のテストを受ける間もなく太田はこの契約社員のアルバイトから降りるつもりだったが、ふとしたことから欠員の連絡がやってきて、人員の補充が出来ず、繰り上がりで採用された。太田がこの仕事をはじめて半年になる。心の底から笑ったことがないピエロが他にいるだろうか、と太田はぼんやりと考える。
 休憩所の前で年配の、眼鏡を掛けた男が腕組みをしながら立っていた。遊園地にはあまり似つかわしくない、ビジネススーツに身を包み、足下には厚みのある黒鞄があった。太田は何度か見かけたことがあった。パークの統括マネージャーの溝口だった。通り過ぎようとするとき、肩を叩かれた。
「お疲れ様。あー、君が新しいピエロ君か」
「……どうも」太田は僅かに首を曲げた。それから、眼鏡の奥で品定めをするように溝口は眼を細め、小声で耳打ちをした。
「すぐに着替えてきてくれないか? 話がある」
 醒めた金魚のような黒目と、冷ややかな線を作った二重瞼が太田の目の前にあった。有無を言わせぬような雰囲気がこの人物にはあって、アルバイトの若い従業員たちからは恐れられていた。とてもパーク内で望んで仕事をしているようには見えない。常に苦々しげな口調で、伝達事項だけを正確に話す、そういうタイプの管理職だった。太田は無言で頷くと休憩所に入っていった。
 ピエロの着ぐるみを脱ぐと、背後でくすくすと笑う女性社員の声がする。休憩室のテーブルではパークの正社員たちが、食事休憩を取っていた。ベテランの社員の前には、どう見てもアルコール飲料が入っているようにしか見えないスキットルがあり、ゴミ箱には潰れたビール缶が底に転がっている。パーク内で演じられる夢と真逆の光景が、そこに広がっていた。
「おい、ピエロ。お前、いつ辞めんだ。監査に目ぇ付けられてんの、知ってっか。もう潮時じゃねえか?」
 スキットルを傾けた中年の事務局員が言った。
「夢を追うってトシでもねえしなあ。笑えねえ」
 従業員達の間で冷めた笑いが広がった。無言で着ぐるみを放り出し、作業着の支給品ジャージに着替える。休憩中のパーク内で着用を義務づけられているもので、清掃のアルバイトと同じものだった。正社員は臙脂色のジャケットを着用している。貴重品を片付けていると、後から入ってきた若い青年が、お疲れ様です、と言って休憩室に割って入ってきた。
「あっ、太田さん。お疲れ様です」
 この青年はてらいのない声でそう言った。足下には脱ぎ捨てたピエロの衣装が落ちていた。
「着ぐるみを着てるのって、大変ですよね。動きづらいし、熱いし、息は詰まるし。周りには子どもがまとわりついてくるし」
「そうか? 馬鹿のふりをしていればいいだけだから、楽だよ。子どもだってわざわざ、おれの周りに寄ってきたりしない。いいバイトだよ。噴水の音だけ聞いていればいいんだ」ロッカーの鍵を回しながら、太田は言った。
「そうですか。僕、パレードの時に見てたんですよ。噴水前のベンチ、居ましたよね。僕なんだか笑っちゃいました。今度、休憩一緒に取りません? 着ぐるみが二人で並んで話してたら、楽しくないですか? そういえば、僕の姪っ子もここに来ているんです……、ちょっと変わった子なんですけど」
「おれはいいよ。またな」
「おーい、前園君。ピエロなんかと喋ってないで、早くこっちこいよ」臙脂色の制服を着た社員達が大声で笑っている。太田は振り向きもせずに休憩室を抜けた。

「話って、何です?」太田は缶コーヒーのプルタブを上げて、胃に流し込んだ。
「君、入ってから半年が経っているね」
「そうですが」
「実はこの一ヶ月に監査があって、パーク内の全従業員の振る舞いをチェックしている。君のスコアは最低点だ。合格点を一つもあげられない。率直に言って、君がいることでこのパーク内に貢献しているようには見えない」
「解雇ですか?」
 溝口は眼鏡を上げ、スラックスのポケットに手を突っ込んで言った。
「君のようなピエロを見たのははじめてだ。子どもの前で笑わない。就業時間中に平気でベンチに腰掛けて休息を取っている。大体、バルーンはどうしたんだ? 噴水の柵にくくりつけたままじゃないか。勝手に持ち場を離れて、仕事をなんだと思っているんだ?」
 溝口は事務的かつ平板なトーンで早口にまくし立てた。太田は返事を返さず、ただ前方を睨み、コーヒーの缶を静かにベンチの端に置いた。溝口は高級皮革の鞄から、さっさと書類を取り出し、一枚のA4コピー用紙をぞんざいに太田の前に突き出した。退職同意書、と書かれてある。
「今週中に事務局に提出してくれ。君のようなピエロはここにいなくてもいい。明日からはもうシフトに出なくていいぞ」
 同意書には既に必要事項が印字されていて、あとはサインをするだけだった。
「自己都合で退職しろと?」
「そうすれば悪いようにはしない」
「こどもたちに夢を売って飯を喰っている奴が、平気で悪い夢を売る訳ですね」
「大人はそういう生き物で、社会はそういう風に回っている。ただのエンターテインメントだよ。あんた、太田って言ったっけ。口の利き方には気をつけた方がいいな。いい年して、夢の見過ぎだよ。荷物をまとめて実家に帰った方がいいんじゃないか? あんたにはその方がよっぽど向いてるよ」
 溝口はスーツの裾を翻し、ベンチを後にした。手元には無機質なプリント用紙と、冷め切った飲みかけの缶コーヒーとがあった。太田は震える手で胸元のポケットからボールペンを取り出し、空欄に投げやりなサインをした。ベンチから身を乗り出すほど反り返って、同意書を片手に、背後にある泉をさかさまに見つめた。
 噴水はトレヴィの泉と同じように、硬貨を投げ込めば願いが叶うということで、やってきた観光客たちが、適当な数の小銭やゲームコーナーのメダルを放り込んでいた。泉の底には叶いもしない願い事のために投げ入れられた硬貨たちが、水流で浮かんだり、沈んだりしている。太田は一息にアルミ缶の中身を飲み干すと、バネの壊れたおもちゃのように、缶を後方に向かって投げ入れた。空き缶が泉の水面を叩く音を聞いている客はひとりもいない。ただひとり、銀髪をなびかせて歩く少女を除いては。空き缶は静かに泉の底へと引き込まれてゆく。
 紺の小さなオーバーコートと子供用の古びたジーンズを履いた少女が、噴水の反対側からじっと、太田の様子を眺めていた。少女の眼が、噴水の間で消えては現れる。明滅する蛍の光のように瞬きを繰りかえしていた。その眼は遠くから見てもよく分かるほど灰がかっていて、純粋な黒ではなかった。太田がベンチからひっくり返ったまま、さかさまの泉を眺めていると、少女は泉の反対側から徐々に旋回する衛星のように廻りはじめ、ベンチの前でぴたりと静止した。銀髪の少女は僅かに口を開いて言った。
「あなた、迷子?」
 太田は慌てて起き上がると、言葉が見つからないで、開いた口はふさがらないままでいた。
「あなた、迷子?」
 少女は二度繰りかえす。彼女がうまく日本語を喋れないのか、自分の耳がこの子の言葉を聞き取れないのか、判断がつかずにいた。見慣れないペーパー・バックの本を小脇に抱えている。"Truman Capote. 『Miriam』"
「ええと、君はおれが迷子だと思う?」
 少女はほんの少しの間、考え込む様子で腕組みのポーズを取ってから頷いた。
「そうか、おれは迷子だったか」太田は半ば自棄になって言った。君もか? と尋ねると何故か嬉しそうにはにかんで笑った。
「そう。わたしも迷子」 
「おとうさんとおかあさんは?」
 太田は屈み込んで尋ねたが、少女はただ首を横に振るだけだった。
 場内アナウンスに耳を傾けてみたが、どうやらまだ迷子の届け出はない。
「どこではぐれちゃったか、覚えてる?」
「アメリカ合衆国」と言葉は返ってきた。太田の首筋の裏に冷たい汗が滲んだ。言葉が見つからず、何度も手の指先を組み替えた。
「あなたは迷子、わたしも迷子」
 少女はお互いを指差しながら言った。
「この遊園地には、ひとりで来たの?」試しに太田は尋ねてみた。
「うん」
 嘘だ、と太田は口にはせずに呟いた。
「君はこれからどこへ行きたい?」
「分かんない。ずっと遊園地のなか」と少女は答えた。
「ちょっと待って。君はいったいいつからここにいるんだ?」
「はじめから」
 太田は日本語がこの少女に通じているのか怪しくなって、口を噤んだ。無言のまま、少女の隣に座っていた。少女は太田が相手をしてくれないと分かると、膝の上にペーパー・バックを広げ、英字でタイプされた文字を読み上げはじめた。パレードは終わり、徐々にメインストリートの向こう側から、客が帰りはじめていた。日は既に沈み掛かり、退園を促すアナウンスが流されている。太田はこの少女を総合案内所の係員のところへ連れて行こうと、少女に向き直った。
「ところで君、名前は?」
 少女はそれがまったく不思議な質問であるかのように首を傾げ、ペーパーバックのタイトルを指差した。
"Truman Capote『Miriam』"
「マイネーム」と彼女は言った。
「ミリアム?」
「Non, I am mirror」
 綴りはどう見てもミリアムだったが、少女はミラーと名乗った。それからペーパーバックに挟んであった聞き慣れない書店のレシートの裏に、太田の胸ポケットのボールペンをひっつかんで、不揃いな漢字を書いた。
"わたしは鏡子。この国では"
 太田はその文字を見ると、一度大きく息を吸い込んでから言った。
「わかった。鏡子。君のことを当ててあげよう。君は十歳くらいの、頭のいい、アメリカ合衆国から来た女の子で、お父さんとお母さんとどこかではぐれてこの遊園地にいる。ペーパーバックは紛れもなく外国の本で、おれはそのひとの書いた本のことをちょっとばかし知っている。君はこの国で育った少女じゃない。そんなに難しい英語の本をすらすらと読み上げて、挟まれていたレシートにはなぜかフランス語が書かれてある。君は色んな国を旅してきたんだろう、どうしてここで迷子になったかおれには分からないが、君はひとりになっても少しももの怖じせず、どこか愉しそうだ。きっと近くにほんとうに見知ったひとがいるんだろう。さあ、おとうさんとおかあさんのところへ連れて行ってあげるから、一緒においで」
 鏡子は途端にペーパーバックを勢いよく閉じ、それを胸に抱えたまま、指を天に差した。
「Heaven」と鏡子は言った。
 天国? と、太田は耳を疑った。いまにも泣き出しそうな鏡子の顔を見て、太田は固まったままでいたが、やがて「大丈夫」とひとことだけ言い残して、彼女の小さな背中を叩いた。
「ちょっと待っててね」と太田は言うと、ベンチを離れ、休憩室へと駆け込んでいった。そして、次の瞬間にはピエロの着ぐるみを着た太田が息を切らしながらやってきて、「お待たせ」と言った。
「ぼくが誰だか、分かる?」
「知ってるわ、わたし、知ってるわ!」少女ははしゃいだ様子で、両手両足をばたつかせていた。太田はその時、ピエロの着ぐるみの中ではじめて唇の端を上げ、腕を軽やかに振って泉の周囲をスキップしながら廻った。鏡子はベンチで振り返りながら大きく手を振り、首を回して、泉の周りを走り続けるピエロを見ていた。そしてピエロは、柵にくくりつけてあった風船の紐をおどけながら外し、色とりどりのバルーンを持って、ベンチに座っている鏡子の元へと歩いてきた。
「お嬢さん、ごきげんいかが?」と言って、赤い風船の糸をそっと鏡子の指先に握らせた。鏡子は細く垂れたその糸を握ると、まるで鏡のなかの彼女自身を、はじめてみつけたかのように、灰色の眼が次第に透き通っていった。
 わたし、いまだったら、なんでも見えるような気がするわ、と少女は言った。
「その糸、離しちゃいけないよ」ピエロは言った。
「どうして?」
「『どうして?』」
 大事なものは風船とおなじさ、と太田は昼と夜を同時に見つめるような眼で言った。ピエロはそのとき、手持ちのバルーンの糸を手放した。色とりどりの、鮮やかな虹色の風船たちが、宙に浮いて踊っていた。
「空に辿り着く前にみんな、みんな割れちまうからさ」
 すべての風船が、二人の頭上ではじける音が聞こえた。はじまりと終わりを告げる冬の空砲のように。

(了)

kazuma

もの書きのkazumaです。書いた文章を読んでくださり、ありがとうございます。記事を読んで「よかった」「役に立った」「応援したい」と感じたら、珈琲一杯分でいいので、サポートいただけると嬉しいです。執筆を続けるモチベーションになります。いつか作品や記事の形でお返しいたします。