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一生分の『バカ』を読んだ私は、自戒の花火を打ち上げられるかもしれない。


『「バカ」の研究』という本を読んだ。


タイトルからしてかなり攻めた本なのだが、内容はもっと凄かった。

まず『はじめに』より

じわじわとにじみ出たり、ぽたぽたと滴ったり、さらさらと流れたり、波のように押し寄せたりしながら、バカはわたしたちを侵食する。バカはあらゆるところに現れ、境界や限界がない。我慢できるくらいにほんの少しだったり、うんざりするほど次々と現れたり、地震のように激しく揺さぶったり、強風のように突撃してきたり、津波のように襲いかかったりしながら、バカはいつもわたしたちを呆れさせ、打ちのめし、混乱させ、傷つける。

2文目でこれだ。冒頭からぶち上げてくる。こんなロケットスタートでペース配分は大丈夫かと心配になる勢いである。人生初のマラソン大会で、スタートと同時に全力疾走した挙句、最後は泣きながらビリの方でゴールインした幼き日の弟を思い出した。

ただ、この本は1冊の中で20人の知の巨匠たちが『バカ』について語る『駅伝方式の本』だった。少しだけ安心した。一方で、20人みんながこんな勢いで走り出したら、全ての区間で『バカ』の新記録が更新されるのではと、やっぱり心配になった。

以下は全て「はじめに」から引用した内容である。

バカはわたしたちを苦しめるだけでは飽き足らず、自らの素晴らしさを誇示しようとする。バカは決してブレない。ためらいなど一度も感じたことがない。絶対に自分が正しいと信じて疑わない。そのおめでたさには、ほとほとうんざりさせられる。
バカを説得しようとしたり、考えを改めさせようとしたりしても無駄だ。必ずこちらが負けてしまう。たとえば、バカを更生させるのが自らの義務だと、あなたが信じたとする。その時のあなたは、バカがどのように考え、行動すべきか、わかっているつもりになっているだろう。あなたと同じようにするのが正しいと思いこんでいるだろう……でもほら、実はその考え方こそがバカなのだ。これでとうとうあなたもバカの仲間入り。その上、世間知らずだ。相手に勝てると思いこんでしまっているのだから。

もうやめて!!わかったごめん!!



そう叫びたくなるくらい『バカ』で畳み掛けてくる。



ちなみに、この本の中で何回『バカ』という言葉が使われるのか、心の準備のために調べてみた。



814回だった。


未だかつて、1冊の本の中で814回も『バカ』という言葉を聞いたことがあるだろうか。アントニオ猪木さんでも817回も「バカヤロー!」と叫んだら喉がやられると思う。そういう本なのだ。

また、検索の段階でチラ見してる短文だけ見ても、めちゃくちゃ辛辣な内容なのがよくわかる。これから私はどんな気持ちになっていくのか、考えただけで恐れおののいた。でも怖いもの見たさは人一倍あるので、ワクワクしながら読み始めた。

図星祭りと自戒の花火

読んでいてショックなのが、この本には図星の内容が多いのだ。これだけ『バカ』と言われていれば、それは1つや2つ思い当たることがあっても仕方がないのだが、ぶっちゃけ結構ある。図星祭りがあったら盆踊り7週くらいできる気がする。


ときどきSNSで「自戒を込めて」というフレーズを目にするが、きっとそういう人が読んだら自戒を込めに込めすぎて、花火として飛ばしたらものすごい大きな花を咲かせることができると思う。盆踊り7週に加え、空一面に大花火である。シークレットベースがあったら隠れたい。

例えば以下

本物の「バカ」とは、自らの知性に過剰な自信を抱き、決して自分の考えに疑いを抱かない人間のことだ。哲学者のハリー・フランクファートが著書『ウンコな議論』〔邦訳:筑摩書房〕 で述べているように、バカは噓つきより始末に負えない。


『ウンコな議論』が気になるところだが一旦脇に置いておこう。

本書では『バカ』の種類として、自身の知性を過信していたり、自分の考えを信じて疑わない人を多く挙げている。そういった人間は真実を見ず、己の信条によってのみ行動する。

意見に根拠があれば良いのだが、多くの場合は己の過信かバイアスだったりする。もはや占いに近いレベルの話を人に押し付けてくる。すでに時代が変わっているのに、自分の経験だけを元に語り、真実をみない。否定されると、たちまち感情的になり、「あいつはわかってない」非難する。

程度の差はあれど、自身の経験を信じて止まない人や、凝り固まった考えを持ったことがある人はそれなりにいると思う。

そういった人間に対する接し方は難しい。だから無理に変えようとせず、そういった人間を増やさないようにする努力の方が必要なケースも多い。

結局のところ、わたしたちにできるのは、バカなことを信じる人を減らすことではなく、むしろ増やさないことではないだろうか。何かを信じて疑わない人間の考え方を変えるのはとても難しい。余計な口出しをすると、逆にさらにかたくなになってしまう危険性があるのだから。



それ以外に私たちにできることがあるとすれば、自分自身が『バカ』にならないことである。

自分自身に対しても、「バカ」という形容動詞をどんどん使っていきたい。そのことばが、自らの考えの誤りを認めた上での恥ずかしさの表れであるなら、それは気づきを得た証拠であり、自己修正のスタート地点となるからだ。
自らをバカと自覚できるうちは、バカはバカになりえない。残念なことに、バカはバカであるがゆえに、自分のバカさ加減に気づける知的能力を備えていない。これこそが〈個人の認識論〉の盲点であり、場合によっては大きな悲劇をもたらしかねない。


ただし、『バカ』にならないことは、決して容易くない。私たちはどれだけ意識しようと、『バカ』になりうる。


例えばこの本をを読んで、

「『バカ』にならないように気をつけているから大丈夫!」

なんて考え始めたら、それこそ『バカ』の始まりだ。まったく意識しないよりは幾分かマシなのかもしれないが、そうやって安心するとたちまち『バカ』の仲間入りである。




ちょっとバカバカ書きすぎて『バカ』の胃もたれを起こしそうなので、箸休めにこの本の面白かった点をいくつか紹介したい。


知の巨匠たちからの学びと人間味

そもそもこの本を読もうと思った理由の一つが、20人の有識者が豪華だったからだ。

『ファスト&フロー』で有名なダニエル・カーネマンや、『予想通りに不合理』など行動経済学の本を執筆しているダン・アリエリーといった、すでに私自身が知っている人たちも多かった。そんな方々が、『バカ』という1つのテーマについてどんなことを書いているのか、関心があった。

読んでみると、それぞれの立場からの考察が述べてあり、必ずしも『バカ』という言葉は使わなくても、人間が起こす『エラー』や『バグ』について、原因や対処法が書いてあり、学びになった。

そして、人によって語り方も、『バカ』に対しての思い入れも違うため、時には感情的な表現で『バカ』について言及したりする。悟空が「これは天津飯の分!!」ってナッパをぶん殴る勢いで『バカ』への一撃を喰らわしてくる。


そんな感じで、ものすごく学びになるのだけど、なんだか人間らしいところも感じられるところが本書の面白みの1つである。きっとインタビューを受けている途中に思い出して、話しながら頭に血が上ってきた人もいるんだろうなあ、と思った。

結局『バカ』の話に戻ってしまった。

続いては「じゃあどうすればいいのよ」っていう問いに対する私の個人的な意見を述べていきたい。

じゃあどうすればいいのよ

この本を読むと『バカ』を直したいと思える。なんせ814回もバカって書かれているのだから、一生分の『バカ』という字面を読んだ気分になる。


ではどうすればいいのか。


まず大前提として、人はすぐには変われない。少なくとも多くの『バカ』な人は、自分が『バカ』なことに気づけていないのである。偉そうに言ってる私も例外ではないはずだ。


相対性理論で有名なアインシュタインはこう言っている。

「どんな問題も、それをつくり出したときの意識レベルでは解決できない。」

つまり、『バカ』が今この瞬間、いくら頑張っても『バカ』なのだ。だからそれに対して悲観したり、気にしすぎたりしても無駄である。生きていくためには、ある程度は気にしない、というスタンスも重要だ。

ただし、既存の考えに固執しないとか、疑いの目を持つとか、そういう意識的に変えられるところはたくさんある。まずは変えられることから変えていくしかない。以下の引用の通り、なんの努力もしないで、開き直るのはちょっと違う。

〈無条件の自己受容〉は、何の努力もしないで「自分には欠点などない」と主張することでは決してない。むしろ逆に、自らの欠点を受け入れ、それによって多くを学び、成長していこうと決意することだ。もちろん、ありのままの自分を快く受け入れる姿勢を維持することが大切だ。


私も本書の中で「昔はこれやってたなあ…」みたいな事例がいくつかあった。でも今は『バカ”だった”』と過去形にできる。でもそれは自分が『バカ』であることを嘆いたからでもなく、悲観的になったからでもない。その時その時は一生懸命に生きていて、たまたま『バカ”だった”』と”気づけたから”だ。

気づくためには落ち込んでいる暇はない。最大限『バカ』なことをしないように自分なりに気をつけて、前に進んでいくしかないのだ。もちろん本書のような書籍から”答え”を見つけるのも1つの手段だが、どこに”答え”が落ちているかもわからない。『バカ』を直すことだけが目的になったら手段と目的が逆転してしまう。



そういえば、さくらももこの「神のちから」という漫画の中で好きな言葉がある。

「バカでもやさしいほうがいい」


人によって好き嫌いが分かれる言葉かもしれないが、私はこの言葉が好きである。この『バカ』は、おそらく本書では言及されていない種類の『バカ』なのだが、人に害を与えない『バカ』はそれほど悪くない。むしろ周りを明るくする。


本書には、こういった人を笑わせてくれるポジティブな『バカ』についての話がなかった。海外と日本では『バカ』の定義が異なるからか、もしくは別の言葉が妥当なのかもしれないが。


話が逸れたが、結局のところ『バカ』を受容して、一生懸命頑張っていくしかない。そして気にしすぎても仕方がないので、強く生きようと決意した。どうせ『バカ』なら愉快な『バカ』であろう。


最後に、SNSに関する大事な引用を記して読書感想文を終えたい。

 (1) 生活のスペクタクル化、(2) 何でも裁きたがる傾向、(3) 有名になりたいという欲求……こうしたSNSの三つの特徴は、〈悪意の先験的条件〉であるのと同様に、〈バカの先験的条件〉とも言えるかもしれない。


…この辺にしておこうか。


面白かったので、興味が湧いた方はぜひ読んでみてほしい。紹介したような過激なパートだけではなく、人間という生き物に関してシンプルに学びになるはず。


このnoteすら、あとで振り返ったら『バカ』だったと思えるのかもしれない。でもまあそれも『バカだった』と言える日が来るのなら、それはそれでいいのかもしれない。


以上。


小木曽

Twitterもやってます→小木曽一馬

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