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生まれ育った田舎で暮らすということ。

私は、とある田舎で育った。
歩ける距離にコンビニもない。スーパーは近くにあるけれど、車がないと不便な距離にある。

大学上京を期に、就職も加えて15年程、東京や神奈川で生活していた。
見渡せば、すぐコンビニはあるし、飲食店も多い。
電車やバスはすぐ来るし、買い物にも困らない。
街を通るすれ違う人は多く、知り合いとすれ違うことはほとんどない。
大学や職場で知り合った人は、適度な距離感で人間関係を構築できていたように思う。

都会というところの良さも、十分に知っている。

***

私は一人っ子で、父が亡くなり子どもが生まれたタイミングで、自分の生まれ育った田舎へ帰ってきた。都会で結婚した旦那はついてこなかった。離婚した。

実家が農家だったというのもある。
どんなに農家の大規模化が進んだって、結局誰が土地の責任を取るかと言えば、大半は家族になるのだろう。漠然とそう思っていたからだ。

子どもの頃、仲の良い幼なじみがいた。入り組んだ道で、車1台がやっと通れる道沿いに自宅があり、その向かいに、その幼なじみの大家族が住んでいた。
核家族で農家を営んでいた私の家は、学校から帰ってきても誰もいない。だから、よくその大家族の家で遊んでいた。
台所もテレビの部屋も仏壇でもよく遊んだ。あんまり日が当たらなかったけれど、そこにはおじいちゃんやおばあちゃんが必ずいる。日中ほとんど誰もいない実家よりも、子どもにとっては安心する場所だった。
あの頃は児童クラブなんてなかったし、夏休みなんて朝から晩までお世話になったこともある。

つまり、親戚でもないのにお世話になった家だった。幼なじみもそうなんだけど、おじいちゃんにおばあちゃんにも。

***

今では娘も小学生になり、私も農家の一員として手伝いをしている。今年で5年目だ。

今年の秋、農家として年貢の明細を近所に配っていた。
あの家もこの家も、私には知っている家だ。
私が子どもの頃はどこの家も米を作っていたが、時代の流れだ。
もちろん、あの大家族のおじいちゃんも米を作っていた。
いつの間にか、私の家が農地を借りている。

あの大家族のおじいちゃんの家に年貢の請求書を配りに行った。
「おじいちゃんの具合、どうですか?」
「それが、今朝亡くなったんですよ。」


2年前、あのおじいちゃんは私に年貢を支払いにきた。手押し車を押していて、歩くのもやっとだった。

「●●ちゃん(=私の名前)、今年もありがとうね。お金確認してね。」

息子に頼めばいいのに、何とか自分の手でお金を持っていきたかったんだろうな。もうアラフォーになろうかという私を、子どもの頃のように名前で呼んでくれた。
私が子どもの頃から、おじいちゃんだった。
ちゃん付けで呼ばれた瞬間、子どもの頃に戻ったような気がした。
いつもそばにいて、安心感があったあの頃。

そのおじいちゃん、2年前は畑に顔を出して、多少の草取りをしていたのだが、気づけば行動範囲が自宅の前だけになっていた。今年から家から出たのを見かけなくなった。そして8月の暑い日、救急車で運ばれていった。
もちろん、90歳を過ぎていたので何があってもおかしくないのだろうけど…。

***

田舎に戻ってきて7年が過ぎた。
田舎の人間関係は狭すぎて、都会より窮屈に感じることが多い。
自分のこれまでやってきたことを死守するような体制が多く、新しいことをしているような人を批判したがる傾向がある。
東京から戻ってきた頃は、都会に戻りたいなぁと思うことも多々あった。

でも、このおじいちゃんの死で私は思った。
田舎に戻ってきて、この地で農家になってよかった。

子どもの頃お世話になった人、お世話になった場所を最期まで見守るということ。
都会に出ていってしまっては、できないことなのだ。

農道で仕事をしていると、子どもの頃からお世話になった別のおばあちゃんに会う。
「畑まで送っていきましょうか?」
「大丈夫だよ、まだ歩けるから。」

また今日も元気で畑に行っているなぁと思うとホッとする。
うまく言葉にできない。
でもこれが、農家に生まれた1人娘の使命かもしれない。私はずっとこの場所で暮らしていこうと思う。




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