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死んだら他者の心のなかで「生きて」いられるか



納得いかない考え方のひとつだ。
「人間は、肉体が死んでもそれだけでは死なない。誰かの心のなかで生き続ける(ことがある)」
「人が【本当に死ぬ】のは、その人をおぼえている人間が誰もいなくなったときだ」

それを本気で言う人が複数いるので、不思議でしかたなかった。

他者がおぼえている「その人」とは、他者の主観というフィルターがかかった変形物で、「その人」の意識そのものじゃないのに。
いつのまに、人は、本人の意識から、他者が抱いている記憶へと、すりかえられてしまったのだろう。

そのすりかえが、「起きてもわからない」くらい、人の意識と他者が抱いたその人の印象とが「近い」なら、そういう発想があっても理解できる。だが、人の一人称的意識は、他者が接近することの不可能なシロモノだし、本人以外にはわかりようがない。それを、他者は勝手に自分のフィルターで人を見、感じ、「こういう人だ」と思い込み、それを「その人」だと信じてしまう。
そしてそこから脱せない。
ほんとうに「その人」を感じ取ったと錯覚する。

その錯覚が存在することをもって、死んだ本人がいなくならずに存続する、と考えてしまうのだろうか。
その思考回路が、私にはどうしても理解できない。
人の意識と、他者が関知しえたその人の姿は、絶望的に「違う」のに。なんでその大きな違いが、違いとして認識されないのか。

ましてや、錯覚は誰のものかといえば、錯覚した人のものでしかない。その意識は錯覚者の主観であり、死んだ人間の本人の意識でなどありえないではないか。

私にとって、これは実に明白でシンプルで、いわば簡単な思考に属するので、これに気づかない論者がたくさんいる、ということが、もはや信じがたいことだったのだ。

あまりにも信じがたいので、ひょっとして私がおかしいのか、とも考えた。だが、明晰にそうだと思える経験を、否定してはいけない。否定するのは誠実ではない。

でも……
今は、これをどんなに言っても書いても、ほぼ理解されない、という予測ができる。
最近その原因について、ひとつの答えを得た。
私の意識のあり方が、普通じゃない、ということだ。

Second self が、つねにいる。
つまり、自分の意識から解離した「もうひとりの観察者」が存在し、そのもうひとりの自分がいつも、私のそばで、私の感じていることや考えていること、「他者が私をどう見ているかを私がどう感じたか」などを、じっと見ているのだ。
ときにはその second self へと、私の意識が向くことがあるが、そうするととたんに、「見られているsecond self」を「見ている【私】」が、つまり初期階層の「私」でもなく second selfでもない、第3の視線の持ち主、いわば third self のようなものが出現する。

今、「階層」と思わず書いたが、そういうことだ。メタ意識みたいなもので、それが、意識を向けるという精神活動におうじて何階層にも分離する。

こういうのが高じれば、精神的な障害の一種になるのだろうが、私はそうなっていない。

解離している状態が「ふつう」で、それは私の中で、病的でない程度には習慣化・常態化していて、その状態で日常の社会生活をなんら支障なく行っている。
社会的に、あるいは心理的に「問題」化したのは、青年期の一時期だけだった。意識が解離しやすい体質が、離人症の症状としてあらわれたので、そのため苦しんだ。

だがそれはすでに「問題」としては存在していない。苦しまずに自然に社会適応できるようになってしまってからは、これは通常の状態になっている。
どこまでが異常なのかは、私自身にも、ましてや私のこのような経験について(私が語らなければ)知りようがない他者にも、わかりようがないのだ。

「治った」と思ってからは、他の人も同じなのだろう、と思った。「違う」と思う理由がなかったからだ。

……だが。
どうやら、私の中がこういう意識構造になっているのは、いまもって普通の状態ではないらしい。

私はずっと子どものころからそうだから、青年期の鬱っぽい状態は一過性の障害で、元にもどっただけだと思っていた。

それが……
子どものころから「そうだった」の「そう」の部分が、すでに、大半の人とは違っていたらしいのだ。

だから──

どうなるかというと、他者が私について抱いたイメージや、「私という人」の像は、どんなものであれ、「この私」(メタ意識階層を経験しているこのナマの私)そのものであるわけがないのだ。

他者が、万一、「私という存在を精神内部にもつ」ことになったとしたら──
つまり、「私がその人の中で生きている」状態になったとしたら、「その人」は、私のこの階層性によって上書きされるはずだ。
そうしたら、その他者は、どうなる?

他者は、私のような意識構造をもたずには、私という存在を思い描くことすらできないのに(Shinoharaさんってこういう人だよね、と勝手に解釈するのは自由だが、それは「私そのもの」ではない)、それでも「私という存在」を内面に「生きさせている」というのなら、その精神は私のようなメタ階層構造をもっているなずなのだが!

そうは、ならないでしょう。どう考えても。

つまり、私が、死んだあとだろうが生きている今だろうが、他者の「なか」に、意識として存在する、などということは、ありえない。単純に、ありえないのだ。

いや……うまく言えていない。

めんどくさいから、これ以上「うまく」言おうとしなくてもいいんだが。(うまく言おうなどというのは、日本語話者の共同体への忖度でしかないし)


もしかしたら──
かんたんに他者と融合できる、といった経験をひんぱんにもっている人たちは、死んだら他者の意識のなかに残り、そこで融合しているから、生きている今とさほど変わらない、と感じているんだろうか。
そんなことが、あるのか?(信じられないが)

もし、そうだとしたら、生きている今、他者と融合したように感じるその感じ方は、私にはどう逆立ちしても「感じることはない」経験だろうと思う。
私は常に、メタ意識がまとわりついている解離者だから。


ことほどさように、「自分とは意識経験が異なる他者が存在する」と信じることは、むずかしい、ということだろう。
「自分と似た意識経験をもつ他者が存在する」なら信じることが容易にできても。

似ていないかもしれない。
──その異質さが、どの程度で、どんな性質の異質さなのか。
あらかじめ想像などできはしない。

多様性、とさわがれている昨今だが、多様性は、おそろしいものだ。
人間から悪魔や神まで、多様でありうる。
制限がないなら、際限がない。
それでは人間は思考することすらできなくなる……

だから、「多様性」という概念はプラスチックのように固めてしまい、あとは、思考を中断し、「自分と似た範囲内での多様性」の内側で思考をする、というところに落ち着く(逃げる)のだろう。


私が死んだら。
誰も、今この私のことをわかってなどいないのだし、私の意識体験は異質らしいから、「外から見た誤解」しか、他者の記憶には残らない。
たとえば身近でいえば、息子とか。
私のことをそれほどわかってはいない。これは間違いない。
息子の知らない私、息子が想像すらしていない精神活動を、私は日々経験しているのだから。

息子が覚えている私など、私ではないから──
そこに、私の死後の生などあるわけがない。


死後、私は「消滅する」とは思っていないが、それはまた別の話だ。










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