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嫌われる勇気を細かく読んでみるメモ⑦

ベストセラーにもなった「嫌われる勇気」をスッと読んでも頭に入らないので、細かく読んで個人的な感想と浮かんだことを書いてみようと思う。7回目。

まず理解していただきたいのは、怒りとはコミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能なのだ、という事実です。われわれは怒りを用いずとも意思の疎通はできるし、自分を受け入れてもらうことも可能なのです。 嫌われる勇気 p.106

子どもを指導するとき、部下を指導するときに怒ってしまうことがある。
これを最近ハラスメントの観点で考えたりしたのだが、指導することはもちろん大事なことだと思う。教える。一緒に考えることは重要なことだと思うし、何もしないのであれば唯の無関心にもなりかねない。
ただ、恫喝することや、汚い言葉を使うことはいけないことだ。
よく部下を叱責する上司だったり、子どもに手をあげる親だったりの表現を見ることがあるのだが、それは「教育的措置」ではない。そこを冷静に理解してほしい。

いうことを聞かない相手を服従させる為の方法

だと思っている。別に教えるのに怒声はいらないし、怒声を発したらから相手の覚えがよくなったり、頭がよくなったりするわけではない。そこにあるのは怖いから相手に従っておこうという主従関係が産まれるだけである。
親子の主従関係は言うにもなくイビツであるので控えるが、
上司、部下の間での主従関係、これは一見良さそうに見えるが全然ダメだ。上司、部下と言えどもチームであって、意見交換が必要である。「チームでの意思疎通は上司に従うことである」が良い状態であると日本社会は考えがちである。全員が同じ考えを共有していたら、全員間違っていたときはどうするのだろう。
意思疎通が図れている。や、言わなくても分かる。と言う文化は主従関係の果ての場合もあるので、できる限り意見交換は必要だ。

と、いうことで、「怒り」というコミュニケーション方法はコミュニケーションとして意味がないことが多い。対話がしたいのか、意見を通したいのかどっちなんだろうとなる。

怒ることをしないコミュニケーションは難しいことも多いと思う。ただ、裏を返せば、それくらい怒ることって簡単なことで、指導するくらいなら服従させておきたくなるのだと思う。

ただ、あなたが怒ったことで、周りが主従関係の人間ばかりになってしまい、それを自分が受け入れられてもらっていると勘違いすることは、とても寂しく、とても怖いことだと思う。

人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。 嫌われる勇気 p.107

これも勘違いしがちなのだが、「私は正しい」ということを教えてあげる時点で相手に「私の正しい」を認めさせる話し合いになると思われる。
ただ、相手も「相手の正しい」を持っている場合もあるので悪しからず。

僕個人としては、今回は、言ってることは分かるんだけど、「でも」が多くなってしまう内容でした。
個人として正しい状態であれば問題ないのだが、どうしても他人に対しての固執があって、独善的な想いが出てしまう。「もっとこうすればいいのに」という相手への感情そのものが、その思いやりそのものが固執であり、そこから離れろと言われると結構難しい。理解まで咀嚼できない。

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