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【考察】法律を守る?家族を守る?人として正しいのは…?【PART6】

▼5/18(土) 20時にYouTubeでプレミア公開


◆本当の正義のお話 PART6


◇これまでの要点


こんばんは!Kazukiです!
それでは本日もさっそく投稿の内容に入っていきましょう!

先月から今週にかけてお届けしているシリーズであります、
【本当の正義のお話】シリーズでは、

パート1からパート3までの投稿で、

2024年1月30日に河出書房新社さんから発行されました、
中村啓(なかむら・ひらく)先生の『無限の正義』の第一章を、
筆者の中村先生公認で要約してきまして、

また、パート4とパート5の投稿では、

2011年11月25日に早川書房さんから発行されました、
マイケル・サンデル氏の『これからの「正義」の話をしよう』の、
全十章を徹底解説してきました。

もう脳みそ蕩けるかと思ったよね。難しすぎて。


そして、本日のパート6の投稿では、
それら二冊の書籍を掛け合わせた、

ある考察を披露していきます。


なので、もしこれまでの投稿の内容の中に、
なにか気になる内容がございましたら、
その方たちはぜひそちらの投稿を先にご覧いただければと思います。

◇【テーマ】法律を守る?家族を守る?人として正しいのは…? 

それでは、いよいよ、
これまでのシリーズの投稿の全ての伏線を回収する考察編へと、
駒を進めていこうと思いますが、

今回取り組んでいく考察というのが、コチラになります。



【考察】法律を守る?家族を守る?人として正しいのは…?



なかなかの難問ですよね。
皆さんはどっちが正しいと思いますかね?

また、そもそもなぜこの考察について、
取り組んでいこうと思ったのかという動機については、

これまでの【本当の正義のお話】のシリーズの投稿を、
ご覧いただいた方であればなんとなく察しがつくかと思います。


というのも、今回取り組んでいくこの考察は、
本シリーズのパート1からパート3で、
中村啓先生公認で第一章を要約させていただいた、
至高の警察エンタメミステリ『無限の正義』で、

主人公の薬師丸遼一が実際に直面した場面と同じ考察なんですね。


なので、それを今回、特濃の正義哲学が論じられている、
マイケル・サンデル氏の『これからの「正義」の話をしよう』、
を用いて考えてみたら、

何か面白い結論が飛び出すのではないか、、、

と気になりまして、

今回の考察の題材には、この、


【考察】法律を守る?家族を守る?人として正しいのは…?


というテーマを選ばせていただきました。


◇【前提】『無限の正義』の考察場面を振り返る


それではこれで、
今回の考察を選んだ動機等についても、
皆様ご理解いただけたかと思いますので、

ようやく、今回の考察に取り組んでいこうと思いますが、


その前に、、、


今回の考察を進めていくにあたって、
この考察テーマの題材である『無限の正義』で、

実際にどのようにして主人公の薬師丸遼一が、
この場面に陥ってしまったのかを把握しておいた方が、
より考察を進めやすくなるかと思いますので、
まずはそこに至るまでの本作の内容を要約していきます。

それがコチラです。



池袋警察署の薬師丸遼一ら及び本庁捜査一課の小田切らは、
目下、池袋を騒がせている連続殺人事件の解決に追われていた。

けれど、その犯人「聖掃者」は、警察より一枚も二枚も上手であり、
これまで四人が殺されるも確たる証拠は、何一つ現場に残っていなかった。

そんな中、遼一は、週刊誌記者・茂木からの助言により、
被害者の一人が所属する半グレ集団の闇金事務所の場所を探し当て、

なんと、闇金の顧客リストのUSBデータを押収することに成功する。

しかし、そんな華々しい成果を挙げた遼一とは打って変わって、
娘の佳奈は、友人・梨花と共に渋谷のクラブへと夜な夜な赴いていた。

本人は連日のバレエレッスンの息抜き程度のつもりだったが、
「ユウキ」と名乗る男に薬を盛られ、部屋に連れ込まれてしまう。

その後、目を覚ました佳奈は、襲いかかってくる「ユウキ」に向かって、
咄嗟に掴んだ鉄アレイを、渾身の力を振り絞って殴りつけると、

「ユウキ」は倒れたまま、動かなくなってしまった。

その後、娘からの電話で事情を把握して駆けつけた遼一は、
親として娘の将来を守るのか、警察官として法律を守るのか、という、

乾坤一擲の二択を迫られることになってしまう。

そして、逡巡の末、遼一が選んだのは「親として娘の将来を守る」ことだった。

そのため、遼一は、犯人蔵匿や証拠隠滅、死体損壊などの、
れっきとした犯罪行為を、警察官の身でありながらも犯してしまう。

さらに、遼一は、大胆なことに娘が殺した男の死体を、
目下、池袋を騒がせている連続殺人事件の一件として偽装してしまう。

当初、遼一のこの選択は、的を得た偽装工作のように思えたが、
池袋署と本庁の捜査員たちを謀ることは決して簡単ではなく、

彼らは、遺体に残された不審点から「模倣犯」の可能性を指摘し始める。

それだけでも、遼一の顔色を悪くさせるには十分だったが、
あろうことか、殺された男の車の後部座席から吐瀉物の痕跡が発見されてしまい、

昨晩、誰かと行動を共にしていたらしいことまで明らかにされてしまう。



これが本作『無限の正義』における、
法律を守るのか?家族を守るのか?という二択を、
主人公の薬師丸が迫られるところの場面になりまして、

この要約からも分かるとおり、、、


薬師丸は「家族を守る」という選択を選ぶんですよ。


一見、この選択からは、
法律を破ってでも家族の将来を守る姿に、
ある種の美徳のようなものを感じてしまうので、

人として正しいように思えるんですが、

実際のところはどうなのか、、、

ということです。

そして、その実際のところを、
マイケル・サンデル氏の『これからの「正義」の話をしよう』を用いて、
明らかにしていこうというわけなんですね。


、、、どうです?面白そうでしょ?


◇【考察①】ジョン・ロールズとアリストテレス


それでは、今回の考察、


【考察】法律を守る?家族を守る?人として正しいのは…?


を進めていく上での動機とその場面を確認することができたので、

ここからはいよいよマイケル・サンデル氏の著書、
『これからの「正義」の話をしよう』を用いて、
その考察へと取り組んでいくのですが、

今回の考察では、
本作『これからの「正義」の話をしよう』で、
マイケル氏が解説されていた二人の人物の考え方、


ジョン・ロールズの「無知のベール」と、

アリストテレスの「目的論的思考」を用いて、

先の考察に取り組んでいこうと思います。


というのも、この二人の考え方というのは、

出発点が全く別々の場所からスタートする考え方でして、

ジョン・ロールズの「無知のベール」というのは、
「無知のベール」という思考実験を用いることで人間を原初状態にし、
そこから人間は何が正しいのか?を論ずる考え方です。

つまり、
スタート地点からゴール地点に向かいながら、
「正しさ」を論ずる考え方なんです。

一方のアリストテレスの「目的論的思考」は、
ある目的を成し遂げるためには、その目的因(テロス)は何で、
それに適う正しさはなにか?を論ずる考え方です。

つまり、
ゴール地点からスタート地点に戻りながら、
「正しさ」を論ずる考え方なんです。

なので、この二つの方向性の違う考え方を組み合わせたら、

両論交えたユニークな結論が飛び出すのではないかな?

と思ったわけなんですね。


◇【考察②】ジョン・ロールズの「無知のベール」


それではこれで考察の手段の説明も終えたので、
ようやく具体的な考察へと入っていきますが、

まず最初はジョン・ロールズの「無知のベール」を用いて、
この考察、


【考察】法律を守る?家族を守る?人として正しいのは…?


に取り組んでいこうと思います。


ただここで多くの方は、

そもそもこの「無知のベール」ってなんぞや?

という疑問を抱えると思いますし、
これを理解しなければ話は先に進みませんので、

本作『これからの「正義」の話をしよう』で、
マイケル氏が解説されている「無知のベール」について、
まずはご紹介していきます。

それがコチラです。


 一つの思考実験をしてみよう。人びとは原理原則を選ぶために集まったが、自分が社会のどの位置にいるのかはわからない。全員が「無知のベール」をかぶった状態で原理を選ぶのだ。無知のベールをかぶると、一時的に自分は何者かがまったくわからなくなる。自分が属する階級も、性別も、人種も、民族も、政治的意見も、宗教上の念もわからない。
 自分の強みや弱みもわからない。つまり自分は健康なのか虚弱なのか、大学を出ているのか高校を中退したのか、家族の絆は強いのか弱いのかも、いっさいわからないのだ。もし全員がこうした情報を持っていないなら、実質的には誰もが平等の原初状態で選択を行なうことになる。交渉力に差がない以上、人びとが同意する原則は正義にかなうものとなるはずだ。

『これからの「正義」の話をしよう』p225-226


つまり、この「無知のベール」というのは、
引用中にもあるとおりに、

「一時的に自分は何者かがまったくわからなくなる」

という状態に陥ります。

そして、そのような状態で選ぶ行為や同意するものこそ、

「真の正義にかなうものである」

とするのが、この「無知のベール」を用いた思考実験の内容なんです。


つまり、、、


この「無知のベール」を被った状態で人が、
法律を守ることよりも家族を守ることを選ぶ、
もしくは、同意するのであれば、

それはすなわち、、、

「人として正しいのは家族を守ることである」

と、『無限の正義』の主人公・薬師丸の選択を、
論理の上からでも擁護することができるのです。


なんだか面白くなってきましたね!


では実際に、この「無知のベール」を被ると、
人はどのようなことを選び同意するのでしょうか?


本作『これからの「正義」の話をしよう』で、
マイケル氏が解説されているその答えがコチラです。


 功利主義は選ばれない、とロールズは言う。無知のベールをかぶっているときは、自分が社会のどこに属しているのかはわからないが、自分の目的を追求し、敬意を持って扱われたいと願っていることはわかる。もし自分が少数民族や宗教的少数派に属しているなら、たとえそれが多数派に快楽を与えるものであっても、不当な扱いを受けたくはないはずだ。無知のベールがとりはらわれ、現実の世界に戻ったときに、宗教迫害や人種差別にさらされるのは困る。そこで人びとは自衛のために功利主義を拒否し、すべての市民に基本的自由(宗教の自由や思想の自由など)を平等に与える原理に同意する。そしてこの原理は、全体の福祉を最大化しようとする試みよりも優先されるはずだ。人間は社会的・経済的利益のために、自分の基本的権利・自由を犠牲にしたりはしない。

『これからの「正義」の話をしよう』p241


つまり、「無知のベール」を被った時に、
人が選び同意するものとは、

幸せを追求する利己的な考え方などではなく、
基本的自由を平等に与えてくれる考え方なのである、

ということなんですね。


それはすなわち、
「法律」と「家族」を秤にかけた場合には、
どちらが重視されるのかというと、

間違いなく基本的人権を保障している「法律」が重視される、

ということを意味しており、

したがって、



人において正しいのは「法律を守る」ことである、



との結論がジョン・ロールズの「無知のベール」からは、
導き出されてしまうわけなんですね。


◇【考察③】アリストテレスの「目的論的思考」


薬師丸遼一、ガックリみたいなね。


しかしです!

肩をガックリさせるのはまだ早いんです。


というのも、
『これからの「正義」の話をしよう』の中でマイケル氏が、

一番強力と言っても過言ではない論理、

と解説していたのが、
次のアリストテレスの「目的論的思考」なので、

こちらの考え方で、

「家族を守ることの方が人として正しい」

との証明をすることができれば、
先のジョン・ロールズの論理とイーブン、

もしくは、

勝ち越すことが出来るかもしれないんです!

まぁそもそも論理に、
勝ち負けなんてものを持ち込んでいる時点で、
ナンセンスだと思う方はいるかもしれませんが、

そこは目を瞑っておいてください。


では、このアリストテレスの「目的論的思考」で、
「人の正しさ」の目的因(テロス)はなにかというと、

「善き生を全うすることであり、それは政治参加によって成される」

と、マイケル氏は解説されています。

しかし、これだけでは理解が十分に至らないかと思いますので、

少し長くはなりますが、
それらが「人の正しさ」の目的因(テロス)である所以を、
マイケル氏が解説している箇所を引用することにします。

それがコチラです。


 それならば、アリストテレスはなぜ、善き生を送るには政治への参加が不可欠だと考えたのだろうか。政治抜きには申し分なく善と徳のある生き方ができないのは、なぜだろうか。
 答えは人間の本質にある。都市国家に住み、政治に参加することでしか、われわれは人間としての本質を十分に発揮できないのだ。アリストテレスは人間を「政治的共同体をつくる生き物であり、その傾向はミツバチなど群れをつくるほかの動物よりも大きい」と見ている。その理由を彼は以下のように述べている。自然は無駄なものをつくらない。ほかの動物とは異なり、人間には言語能力が備わっている。ほかの動物も鳴くことによって快楽や苦痛を表わせる。だが、人間に特有の能力である言語は、快楽や苦痛を表現するためだけにあるのではない。何が正義で何が不正義かを断じ、正しいことと間違っていることを区別するためにあるのだ。人間はそうしたことを沈黙のうちに把握してから言葉を当てはめるのではない。言語は、それを通してわれわれが善を識別し、熟考するための媒体である。
 アリストテレスによれば、政治的共同体においてのみ、われわれは人間に特有の言語能力を行使できる。なぜなら、都市国家においてのみ、正義と不正義、善き生の本質などについて他者と討議できるからだ。「つまり、都市国家はもともと存在し、個人に先んじていることがわかる」と、アリストテレスは『政治学』第一巻で述べている。「先んじている」のは、時代が先だという意味ではなく、機能あるいは目的において先んじているという意味だ。個人、家族、部族は、都市よりも前に存在した。だが、都市国家においてのみ、われわれは人間の本質を体現できる。孤立しているとき、人間は自足していない。なぜなら、孤立したままでは、言語能力を発展させることも道徳的熟慮を深めることもできないからだ。

『これからの「正義」の話をしよう』p308-309


なので、アリストテレスに言わせれば、
「政治参加」をしている時にこそ、
人間はその本質を発揮できているのであって、

それがすなわち、
「善き生」に繋がる(人として正しい)ということなのです。

そして、引用中でも述べられているように、
その「政治参加」をさせる「都市」は、
「家族」よりも後に存在してはいるが、

どちらのコミュニティがこの「善き生」を全うできるのかというと、

それは「政治参加」が出来る「都市」なわけなのです。

つまり、人としての正しさを全う出来るのは、、、


「都市>家族」


という不等式がアリストテレスの論理からは成立してしまうのです。


そのようにして考えていくと、
薬師丸は『無限の正義』の作中で、
家族である娘の佳奈を殺人の罪から庇うため、

法律を犯しましたが、

それはアリストテレスに言わせてみれば、

都市への政治参加に対する裏切り行為です。

そして、政治参加に対する裏切り行為というのは、
人の正しさである「善き生」の道を外れることとなってしまい、

作中でアリストテレスはそのような行為を「人ではない」とまで述べています。


すなわち、、、



家族を守ることは人の正しさの本質ではなく、
法律を守ることが人の正しさの本質なのである。



という結論を、
アリストテレスの「目的論的思考」からは、
読み解くことができてしまうわけなのです。


◇【結論】人として正しいのは…!?


したがって、
今回の考察である、



【考察】法律を守る?家族を守る?人として正しいのは…?



に対する結論は、、、



人間を丸裸の原初状態にしたところで、
家族より法律を守ることの方が大切で、

また、

現代日本の都市国家性を鑑みて、
その一員でありたいのであれば、

家族より法律を守ることの方が大切である。



と結論づけることができるかと思います。


、、、薬師丸さん、
もう完膚なきまでの惨敗を喫してしまうというね。笑


◆おわりに


いかがでしたかね!


今週の投稿では、
2011年11月25日に早川書房さんから発行されました、
マイケル・サンデル氏の『これからの「正義」の話をしよう』の、

全十章の徹底解説、

並びに、本作と先月著者公認で要約させていただきました、
2024年1月30日に河出書房新社さんから発行されました、
中村啓(なかむら・ひらく)先生の『無限の正義』を用いて、

【考察】法律を守る?家族を守る?人として正しいのは…?

を披露してきました!


正直、いつもそうなんですが、
考察系の投稿って、本の内容をそれぞれ読み込む前に、
表紙だけを見て、

「これいけるんじゃね?」

と思い、見切り発車でスタートしているんですが、
毎度毎度、なんとか結論を捻り出すことはできるんですよね、、、


我ながら、マジで天晴。


また、今週の投稿をご覧いただき、
実際に本作らを読んでみたいと感じた方がいましたら、

下記のAmazonのリンクからご購入して、
ご一読いただければと思いますし、

そうしてその時にはやっぱり、
本作が孕む至高の警察エンタメミステリと特濃正義哲学に、

興奮が覚めやらないかもしれませんし、

また、今週の私の投稿で注目することのなかった、
本作らの考察に皆様が気付くことができるかもしれませんが、

それは皆さん次第です。


ご健闘を祈ります。


ぜひこの週末は、、、

「法律を守る?家族を守る?」という乾坤一擲の二択を糸口に、
至高の警察エンタメミステリと特濃正義哲学を堪能する読書の旅を、

楽しんでみてはいかがでしょう!


では、この投稿が面白いと感じた方は「スキ」!
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どちらもお忘れなきようこれからも応援してくれるととても嬉しいです!

それでは、また次回の投稿でお会いしましょう!またね!


◇紹介書籍リンク


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