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【ミリオンヒット】マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』第六章〜第十章を徹底解説【PART5】

▼5/16(木) 20時にYouTubeでプレミア公開


◆本当の正義のお話 PART5


◇パート4の要点


こんばんは!Kazukiです!
それでは本日もさっそく投稿の内容に入っていきましょう!

今週は2011年11月25日に早川書房さんから発行されました、
マイケル・サンデル氏の『これからの「正義」の話をしよう』の、
全章徹底解説をおこなっておりまして、

前回のパート1の投稿では、



  • 『これからの「正義」の話をしよう』第一章〜第五章の徹底解説



の内容をお届けしてきました。

なので、今回の投稿ではその続きになります、



  • 『これからの「正義」の話をしよう』第六章〜第十章の徹底解説



の内容をお届けしていきますので、

もし、先にあげたパート1の投稿の内容の中に、
なにか気になる内容がございましたら、
その方たちはぜひパート1の投稿をご覧いただければと思います。

◇第六章「平等の擁護ーージョン・ロールズ」


それでは、さっそく今回の投稿の内容であります、
『これからの「正義」の話をしよう』の第六章〜第十章までの解説に、
入っていこうと思いますが、


前回のパート4の投稿の最後で、
第五章「重要なのは動機ーーイマヌエル・カント」において、
今後の本作の展開において重要な点が、


「正義にかなうのは憲法であり、憲法は仮想上の契約である」


だということは明示しました。

しかし、これだけでは正直何が何だか珍紛漢紛だと思います。


では、これは一体どういう意味なのでしょうか?


それを理解するにあたってマイケル氏は、

アメリカの政治哲学者であるジョン・ロールズ氏を参照しておりまして、


彼が自著『正義論』で唱えた「無知のベール」という思考実験が、
先の重要事項について、その理解を助けると述べており、
そのマイケル氏の解説がコチラになります。


 一つの思考実験をしてみよう。人びとは原理原則を選ぶために集まったが、自分が社会のどの位置にいるのかはわからない。全員が「無知のベール」をかぶった状態で原理を選ぶのだ。無知のベールをかぶると、一時的に自分は何者かがまったくわからなくなる。自分が属する階級も、性別も、人種も、民族も、政治的意見も、宗教上の念もわからない。
 自分の強みや弱みもわからない。つまり自分は健康なのか虚弱なのか、大学を出ているのか高校を中退したのか、家族の絆は強いのか弱いのかも、いっさいわからないのだ。もし全員がこうした情報を持っていないなら、実質的には誰もが平等の原初状態で選択を行なうことになる。交渉力に差がない以上、人びとが同意する原則は正義にかなうものとなるはずだ。

『これからの「正義」の話をしよう』p225-226


では、その「無知のベール」を被った人々は、
一体何に同意するのかというと、

それが、、、


その国の憲法で保障されている「福祉・自由・美徳」である、


ということなんですね。

そして、あくまでもその「無知のべール」は、
ロールズが唱えた思考実験であり、仮説的なものだから、


「正義にかなうのは憲法であり、憲法は仮想上の契約である」


という理解に至わけなんです。


、、、しかしです。


このロールズが唱えた「無知のベール」には、
ある大きな反論がありまして、

それが、、、


原初状態だと誰もリスクを犯したくないから、
何かに挑戦する動機も発生しないし、
挑戦の過程の努力も認められなくなってしまうだろ!


という反論でして、それに、現実問題として、
この世界には「無知のベール」を被った「原初状態」とは程遠い、

民族や人種、性別による様々な格差が存在していることは明らかです。


なので、マイケル氏は、
この格差を是正しようとする現実的なアクションである、

「アファーマティブ・アクション」

について解説するべく次の章へ駒を進めていきます。


◇第七章「アファーマティブ・アクションをめぐる論争」


この「アファーマティブ・アクション」というのは、
Wikipediaの解説を引用すると次のとおりになります。


アファーマティブ・アクション(積極的格差是正措置、肯定的措置)とは、民族人種性別などによる差別に苦しむ社会的弱者の不利な現状を、歴史的経緯や社会環境を鑑みた上で是正するための積極的な改善措置を表す。1960年代より主に欧米において行われてきたが、他の地域における施策も同様に呼称する。この語は1961年にジョン・F・ケネディ米大統領が大統領令において初めて使用した[1]

アファーマティブ・アクション - Wikipedia


本作では、その代表例として、

  • 大学進学テストの差を補正させる

  • 戦犯などの過去の過ちに対して補償させる

  • 個人個人の多様性を促進させる

などの場面において、
この「アファーマティブ・アクション」が擁護されていると、
マイケル氏は解説されています。


しかし、一方では、
この「アファーマティブ・アクション」に、
賛同しない方たちもいまして、

その方たちの言い分としては、、、


「民族や人種、性別を何かの選考基準にするのは不公平だ」


というもの。

確かにその意見には納得できる部分もあるんですよ。

というのも本章の冒頭では、ある一人の白人女性が、
家が裕福でないながらも一生懸命勉学に励んで、
ある大学の入学試験を受けて、絶対に合格できる点数だったのにも関わらず、

自身の人種によって「不合格」とされてしまい、

これではその反対意見も、
頷けるところだと個人的には思いますし、

また、そのような状態が「正しい」か?と問われると、

頭を捻りたくなる自分がいるのも確かです。


なぜならば、それは、
本作が第一章で挙げた正義への三つのアプローチである、

「福祉・自由・美徳」

という点において、

なんら理に適っているとは感じていないからです。

「自由」なんかは特にですよね。


、、、そして、ここまでご覧いただいた、
読者の皆様ならばわかると思いますが、

このような賛否両論が入り混じっているのが、
本作『これからの「正義」の話をしよう』なので、
正直、大変に頭がこんがらがってきてしまい、

結局、何が正しいのか?

と、非常に頭を悩ませてくれるんですけれども、、、


この次の章でマイケル氏は、
これまでの混乱を吹き飛ばすかの如く、
超強烈な「正義」を定義付ける論客を参照しておりまして、

その論客というのが、、、


古代ギリシアの哲学者であり、
「万学の祖」とも呼ばれたアリストテレスになります。


◇第八章「誰が何に値するか?ーーアリストテレス」


では、マイケル氏は、
このアリストテレスが唱えた「正義」にまつわる論について、
どのような点が非常に強力なのだと捉えているのかというと、

それは、、、


アリストテレスの「目的論的思考」にあります。


この「目的論的思考」というのは、
あるものの目的からそのものの妥当な割り当てへと考えていく論法であり、

アリストテレスなどが存命であった古代ギリシアでは、
そのような論法が非常に好まれていた時代でした。

つまり、、、

ある目的を成すためにはどのような手段を取るのが正義なのか?

という論法が主流だった時代なんですね。


そして、その論法を用いたアリストテレスは、

自身の正義論に対して、二つの観念を提示している、

とマイケル氏は述べておりまして、それがコチラになります。


1 正義は目的にかかわる。正しさを定義するには、問題となる社会的営みの「目的因(テロス)(目的、最終目標、本質)」を知らなければならない。
2 正義は名誉にかかわる。ある営みの目的因について考えるーーあるいは論じるーーことは、少なくとも部分的には、その営みが称賛し、報いを与える美徳は何かを考え、論じることである。

『これからの「正義」の話をしよう』p294


なので、アリストテレスに言わせてみれば、
「正しさ」というのは、
ある定義によって一律に定まるものではなく、


問題となる社会的営みの「目的因」によって、
逐一変わってくるものであり、
それは「目的因」が変わる度に考え続けなければいけないんだよ、


というものなんです。

つまり、、、


何が正しいのかは目的によって変わるから、自分の頭を使って考えやがれ!


ということをアリストテレスは大昔に提示していたんですね。

なんだか、すぐ答えを出したがる現代人にとっては、
非常に啓発的な結論だと個人的には思ってしまいますね。
みんな、すぐ答えを欲しがりますからね。良い意味でも悪い意味でも。


とはいえ、これだけでは、
なんだか不完全燃焼感がするのも確かなので、
先の憲法の話とも関係する話である、

「政治」というテーマについて、

本章でマイケル氏が紹介している、
アリストテレスの「正義」を紐解いていこうと思います。


マイケル氏は、
アリストテレスが求めた「政治」の目的を、

「善き市民を育成し、善き人格を養成すること」

と紹介しておりまして、

その当時、市民集団によって形成されていた、
都市国家(ポリス)というコミュニティの「正しさ」というのは、

その「善き市民を育成し、善き人格を養成すること」だったんです。


それはすなわち、
その当時の都市国家において「正しい」とされていたのは、

自ら政治に参加して、善き生を送ることを意味しており、

逆説的に、

自ら政治に参加しないものは人ではない、

とまで言い切ってしまっているんですね。


結果、このアリストテレスの論調は、
奴隷制を擁護する論理に繋がってしまうので、
後の哲学者たちはこの論調には一線を画しているようなんですが、

それでも先の「自分の頭で考えやがれ」は、

個人的に非常にグッときた論調でしたね。


◇第九章「たがいに負うものは何か?ーー忠誠のジレンマ」


また、先のアリストテレスの「政治」における論調が、
忌避される要因の一つに、

本作で掲げている正義へのアプローチである、
「福祉・自由・美徳」のうち、

「自由」というのは非常に制約を受けてしまっており、

その点も後の哲学者たちが彼の論調を忌避する所以だと、
マイケル氏は述べています。


しかし、この「自由」というのは、
それを得るためにはあるもう一つのものも背負わなければなりません。

それは、、、


「責任」です。


先のアリストテレスが中心であった第八章の次の第九章、
「たがいに負うものは何か?」では、
この「責任」と「正義」の関係性をマイケル氏が解いていまして、

その延長線上から、
これまで見てきたロールズやカント、
ベンサムやアリストテレスらの論理を持ち出してきて、

正義と自由について述べられています。


、、、なんですが、、、


正直、ここから先は、
マイケル氏がこれまでに登場した論客たちの論を用いて、
正解のない現代の問いに向けて堂々巡りをしており、

先のアリストテレスが言ったとおり、

自分の頭で考えまくっている章になるので、

この投稿では第九章の解説はここまでさせていただきます。

悪しからず。


◇第十章「正義と共通善」


そうして、ようやく本作、
『これからの「正義」の話をしよう』も最終章である、
第十章「正義と共通善」の解説になるんですが、、、


正直、こちらの章も、
先の第九章と同じく、筆者のマイケル氏が、
これまでに参照した論客の論を用いて、

  • 政治の宗教に対する中立への切望

  • 妊娠中絶と幹細胞をめぐる論争

  • 同性婚

など、様々なテーマにおいて、
それらの「正義」について論じています。


だがしかし、、、


この章中の「正義と善き生」という節で、
マイケル氏は自身の「正義」に対する考え方を述べられていまして、

ある意味、キリがいいので、、、

本作『これからの「正義」の話をしよう』の徹底解説は、
筆者であるマイケル・サンデル氏の「正義」に対する考え方を以てして、
その役目を終わらせていただければと思います。
(*というか自分でまとめるのは無理ぽよ。ぴえん。)

それがコチラになります。


 この探求の旅を通じて、われわれは正義に対する三つの考え方を探ってきた。第一の考え方では、正義は効用や福祉を最大化することーー最大多数の最大幸福ーーを意味する。第二の考え方では、正義は選択の自由の尊重を意味するーー自由市場で人びとが行なう現実の選択(リバタリアンの見解)であれ、平等な原初状態において人びとが行なうはずの仮説的選択(リベラルな平等主義者の見解)であれ。第三の考え方では、正義には美徳を涵養することと共通善について論理的に考えることが含まれる。もうおわかりだと思うが、私が支持する見解は第三の考え方に属している。その理由を説明してみたい。
 功利主義的な考え方には欠点が二つある。一つ目は、正義と権利を原理ではなく計算の問題としていることだ。二つ目は、人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平らにならして、個々の質的な違いを考慮しないことだ。
 自由に基づく理論は一つ目の問題を解決するが、二つ目の問題は解決しない。そうした理論は権利を真剣に受け止め、正義は単なる計算以上のものだと強く主張する。自由に基づく諸理論は、どの権利が功利主義的考慮に勝るかという点では一致しないものの、ある特定の権利が基盤となり、尊重されるべきだという点では一致する。だが、尊重に値する権利を選び出すことはせず、人びとの嗜好をあるがままに受け入れる。われわれが社会生活に持ち込む嗜好や欲求について、疑問や異議を差し挟むよう求めることはない。自由に基づくそうした理論によれば、われわれの追求する目的の道徳的価値も、われわれが送る生活の意味や意義も、われわれが共有する共通の生の質や特性も、すべては正義の領域を越えたところにあるのだ。
 私には、これは間違っていると思える。正義にかなう社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。正義にかなう社会を達成するためには、善き生の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。

『これからの「正義」の話をしよう』p406-407


〈パート6へ続く〉

◇紹介書籍リンク


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