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「コミュニケーション学」を修士でやろうと思った訳

「コミュニケーション」って、なんだろう。

めちゃくちゃ漠然としていますが、人間が人間として生きる上で、およそ切り離せない(欠かせない)現象。モノとしての実体もない不確かな存在なのに、ヒトが最も価値を置いているといっても、あまり過言ではないような。

「これ」によって、人は怒り、喜び、泣き、この世の幸せをもっとも感じるであろうし、あるいは絶望し、自殺までしようとする。

そんな不可思議な現象、いや不可思議だからこそ、学問として成り立っているのがこの分野ではないでしょうか。側から見れば「文系学問」として何の役に立つのか...と、がっつりとしたSTEM分野と比べて、正直軽やかな劣等感を意識してしまいますが、それでも自分はこの「コミュニケーション」にまつわる学問を深めたいな、と感じてイタリアの大学院にやってきました。

なぜ、その分野をわざわざ深めたいと思ったか?
個人的な経験からではありますが、その経緯をちょっと整理してみます。

「コミュニケーション学」とは

まず、広い範囲で捉えられる「コミュニケーション学」とは何なのか?

院に通っておきながらですが、なんだか定義が難しい分野な気がします...。
ややアカデミックっぽく言うと「特定のシンボルや意味を、時空間を超えて共有していく行い」になるでしょうか。

ただ、もっとシンプルに言えば「人から人にあるものが伝わること」が核にあるのかな、と思います。あいさつというごく身近な言動から親愛の情が感じ取られたり、ニュースにおける人口や経済の統計データから社会の流れを測る知識を得たり。

とにかく、人間である以上「コミュニケーション」は欠かせないため、対象とした学問の分野も必然と幅広くなってきます。組織コミュニケーション、政治的コミュニケーション、広報/パブリックリレーション(PR)、ビジネスマーケティング、マスコミュニケーション...。

心理学、政治学、言語学、情報工学、経営学、修辞学と、横断的に広がり。いずれにしても自分は、「誰かに何かが伝わるプロセス」に興味を抱いてきたのだと思います。

当たり前の「コミュニケーション」ができなかった自分

言い換えると、自分は「コミュニケーション」の課題にずっと敏感でした。幼い頃から場面緘黙症であったため、多くの人にとって当たり前の「話す」という行為に、非常に強いプレッシャーを感じていました。

内面に感じた思いを表出するのに、ことばが出ない。人間としてごく自然に使うはずの「声」が、自分にとってはうまく扱えず、とても苦労していました。学校の同級生や先生との簡単な意思疎通もそうだったし、日頃の人間関係もすごく苦手だった。「ことば」を持たずに、ただゆっくりとすやすや眠っている猫とかハムスターを傍らに見ては「すごく羨ましい」と思ったものです。

ただ、代わりに本の世界へのめり込んでいたため、書き言葉としての「ことば」は、自分の中ですくすくと育っていました。「声」が出せない以上、もはや筆談だけで生きていけるようになったら楽だな、とも思ったりして...。

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そう考えると。自分の内面を伝える手段(=コミュニケーション)は、なぜ「声」でないといけないんだろう、と。小学校や中学校では、自分が緘黙でいると「なんで喋らないの」と毎回問い詰められるような感覚で、その度に「自分は普通のことができない」と落ち込み、ゆくゆくはそれが今でも自分への諦念感を潜在的に作り出してたりします。

でも「声」に限らなければ。例えば画家が絵を通して感情を表現したり、音楽家が曲を通じて経験を伝えたり。あるいはこうした、書き言葉の文章によってでも。そこから何かの「共感」が芽生え、人から人へ伝わるのだとしたら。

人間のコミュニケーションって、日常の大部分は声で行われているけれども、実はけっこう多様じゃないか、と。外向的によく喋る人ばかりが一見有利に見えるけれども、声を扱えない人なりの伝達手段もたくさんあるだろうと。

「黙してしまう人」

そう思うと、人はいろんな手段を通じて、「黙してしまいそうな状況」においても、内面の思いを表現してきました。例えば、政治的に強権な体制下で抑圧され、声を通じて政治を語ることが難しいとき。絵画や音楽、文学の世界で抵抗を試み、「話す」以外の手段によって、共感を拡げていく人たちがいました。

あるいは、LGBTQや女性であること。また、異国で外国人であることも。学校における教師と生徒の力関係でも。「当然だと見なされている価値観がその場を創りあげていて」、入り込む余地がなく、声を上げられずに黙してしまうこと。

「緘黙」という症状から、自分は常に「喋っている人」よりも「黙してしまう人」のほうに、特別な共感を抱いてきた気がします。生きている様々な局面で、何かしらの「不利」を感じてしまうことから、声を出せずにいる人。だからこそ、そんな人たちの「思い」が伝わるきっかけ(コミュニケーション手段)が、多種多様であればいいと思う。

筆談でも、映画でも、グラフィティアートでも、贈り物を通じても、ただ同じ空間を共有してるだけでも......。何かしらの思いが伝わり、人の間に共感が生まれ、拡がっていくプロセス。その現象への理解を深めていくことに可能性を感じ、自分という一個人の中で、強いこだわりとして育っていきました。

今やっていること

その思惑から、「コミュニケーションと名のついた学問を深めたい」という思いが募って、同キーワードが含まれた「M.A. Communication Strategies (=コミュニケーション戦略の修士号」を今やっていることになります。正直なところ、申し込む際には、他の分野も見てけっこう悩んでいました...。ただ、自分の人生にとって「コミュニケーション」というキーワードに一定の軸(理念めいたもの?)を意識してきたため、今のところに落ち着きました。

現在やっていることは、けっこう様々です。ストーリーテリング理論、言語データの統計的な分析手法、ネットワーク理論など...。また折に触れて、どういう関係を持つか、整理し書いていきたいと思います。

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