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わたしが文学を読む理由

「文学」というと、その高尚な響きからも、遠いイメージがあるかもしれません。一部のマニアックな人を除き、そんなに普段読む機会がないかも...?

中学のとき。日本史の授業で、ひたすら作者名 & 作品名を暗記し、テストにただ丸写しという作業をしながら。正岡子規、滝沢馬琴、東海道中膝栗毛、好色一代男...「なんだか難しい名前ばっかりだなぁ」という、無味な印象ばかり残る。

そんな自分が「文学」に特別なこだわりを抱くようになったのは、高校のときでした。

高校に1,000日以上不登校した自分と、「赤と黒」に「グレートギャツビー」

自分は高校に入学してから3日間だけ通い、のち3年間を不登校で過ごしました。トータルで1,000日間以上は、学校に通わなかったことになります。ともあれ人生でもっとも、人との交流が途絶えた年間でした。

最初の2週間程度は、「毎日が休日だ!」みたいなテンションで、ゲームやネットに熱中するあまり。ところが、土日と平日の区別がつかなくなる期間が一ヶ月、二ヶ月と続いていく。どうなるかというと、大きな塊めいた不安が次第に大きくなっていき、あらゆる娯楽によっても効かなくなってきました。

「せめてマンガで勉強しよう」と、手に取りだしたのが「まんがで読破」シリーズ。古今東西、世界のあらゆる古典的な作品をまんが化したものなのですが、これがハマっていった。その中でも、特に印象に残り、原作まで購入して読んだ二つの文学作品がありました。「赤と黒」と「グレート・ギャツビー」です。

かたや19世紀フランスを舞台にとった小説であり、もうかたや20世紀前半アメリカの資本主義社会に描かれた作品。当時17歳くらいの一ティーンにすぎない不登校の自分が、なぜハマっていったのでしょう。

というのは、どちらの作品においても「完全に無の状況から、自分の夢を叶えるためひたすら黙しながら努力し続ける同世代(16~19歳)」が描かれていたからです。

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「赤と黒」には、ジュリアン・ソレルという18,19歳くらいの主人公がいます。貧しい製材屋の末息子で、父親や兄からいじめられる日々。しかし、ナポレオンに憧れを抱き、学問を毛嫌う家族から隠れて、仕事の合間を見つけては懸命にラテン語を勉強します。

」は軍服の色で「」は司祭の服。当時ナポレオンが失墜してしまったあとなので、軍人(=赤)としての出世は難しい。なので、聖職者(=黒)として栄達を求めることになり、手始めに町長から子どものラテン語家庭教師として雇われる機会を得て、出世を目論む...というストーリーです。

完璧主義っぽくもあり、プライドも高いながら、無名のため貴族の夫人に劣等感を抱いてしまったり、感情が揺れ動きやすい...。そういうジュリアンの存在に、どこか自然と自分を重ね合わせていました。

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「グレート・ギャツビー」は、ジェイ・ギャツビーという主人公。30代前半で、毎週末のように豪邸で超豪華なゲスト陣を招き、壮大なパーティーをしまくる。そのくせ、戦争で英雄として表彰されたとか、オックスフォード大学を卒業してるとか、麻薬の大売人で大儲けしてるとか、人を何人も殺してるとか、めっちゃ謎すぎる人物として描かれます。

そんな「グレート」すぎる経歴かと思えば(ちょっとネタバレになりますが)、実はあるたったひとつの純粋すぎる目的のために、あらゆる努力をしてきた人でした。実はもともと貧乏な農夫の息子でしかなく、「大きくなりたい」と幼少のころから願い続けていた無名の存在。ある嵐の晩、たまたま助けたヨットに富豪が乗っており、その縁から彼と世界を周り故郷を離れました。それがおよそ16歳のときで、自分と重なる。

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この二人のストーリーは、とても心を打ちました。貧しくて、恵まれた環境で育てず、身内にも頼れる人がいない。ただただ無名の存在でしかなく、普通だったら自分の将来も、今の環境を見て諦めてしまいそう。それでもひたむきにあがき、心の内で叫び続ける。

勉強嫌いの父親に隠れて、仕事の合間があり次第ラテン語の本で勉強するジュリアン。「7:15-8:15am 電気の勉強をする」「毎週3ドルを貯金する」「親に良くする」といったスケジュールを、14歳のときに書き残していたことが最後に発覚するギャツビー。

「無」の自分に耐えられなくなったときにジュリアンを思い出し、日々の勉強計画をギャツビーのように作っていき。やがて彼らの存在が、いつしか「今はもう生きてはいないけれど、自分を支えてくれる友人」のような、不思議な感覚に感じられてきました。

大学の失恋で歪んでいく自分と、「椿姫」

そんな彼らのおかげもあってか、目指していた第一希望の大学に入れました。ところが、それまでほとんど人と関わってこなかったせいでしょう、新しい環境に入って、今度は同世代の人との付き合い方に悩んでしまいました。

今でも思い出すと恥ずかしいくらいなのですが...、失恋めいたことを経験し。付き合うほどまでには行かなかったのですが、よく一緒にいる機会が多かったり、ごはんを作って食べたり、悩み事を相談したりしていました。

お互いによく連絡し合っていた中、あるときからぷっつりと途絶え。何か大きな前触れがあるわけでもなく、突然に反応が冷たくなりました。明確な理由がよく分からず、何度かメッセージで聞こうとしたら「もう二度と話しかけないでください」と言われ、ブロックされることに。

そのとき、自分に二つの感情が湧き起こりました。ひとつは、理不尽に扱われたという怒り。もうひとつは、何がいけなかったのかが分からないという絶え間ない疑問。

負の感情は、一度上手に発散されれば良いのですが、その人と直接話す機会も持てず、他の人にもうまく相談できずにいたことから、ただ悶々と蓄積されていくばかりになり。どこにも放出できず、体内に淀んでいく怒り・疑問は、やがて憎悪という感情に変異していきます。

彼女とは同じクラスを取っており、毎週少人数の授業で顔を合わせなければいけなかったことも、その重い感情を毎度掻き立てる燃料になりました。自分だけ意図的に避けられ、存在しない人間のように扱われる。相手はもう完結したように振る舞っているけれど、自分は何も分かっていない。

勉強も試験もなおざりになっていき。彼女のいた授業は、個人的にはとても続けたかったけれど、顔を合わせるのが重荷なあまり履修を中止しました。「すべて彼女によって崩された」という思い込みが、激しくなっていきます。眠れない毎晩の枕元で、とても犯罪気味たことまで妄想するようになってしまう。

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そんな折に出会ったのが、「椿姫」という小説でした。高級娼婦マルグリット・ゴーティエと青年アルマンの恋愛が描かれつつ、後半では非常に緊張した対立関係が描かれます。

二人は相思相愛でおり、田舎で一緒につつましく暮らすことまで約束をする。しかしある場面から、マルグリットがアルマンを何も言わず突然置き去りにし、パリで奢侈に溢れた高級娼婦の生活に戻ることに。アルマンは「裏切られた」ショックに打ちひしがられ、復讐を決意します。嫉妬と狂気に駆られ、倫理的に反したことまで手を伸ばすようになり。なぜ自分を捨てたか、何も明確にせず強硬に無視を続けるマルグリットに精神的な嫌がらせを続けました。

ほんとうは、マルグリットには深い理由があったのですが...。ただアルマンの思考・行動を文章で辿っているうちに、まさに「自分の鬱屈がそのまま表現されている」と感じました。社会的には許されざることまで考え始め、それを肯定してはいけないと理性で分かっていつつも、生まれた感情を否定しきることもできない。

本の中の人物に声をかけたくなる瞬間こそが、文学を読む一番の意味になるのだと。「こんな自分みたいな経験をしているやつが、他にもいるんだ」という共感。孤独と葛藤のスパイラルに陥ったとき、文章に宿る別人格の存在が、今の自分を相対化させてくれる。やがて、その存在は恋愛面での負の感情を補ってくれる、心の支えとまでなりました。

一度折れてしまった個人を、社会に接続しなおす機能の「文学」

こんな例からも、文学にはたいていの場合何かしらの「葛藤」が描かれます。

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無名で恵まれた境遇にいないけれど、とにかくこの状況から抜け出したい欲望
不遇な別れ方をしたせいで、嫉妬憎悪を募らせ、感情を上手にコントロールできない。あるいは、受験に失敗した・仕事で致命的なミスをしてしまった、という挫折から、結婚生活で幸せのはずなのに感じる虚無感や、小さく重ねてきた嘘に対する負い目や罪悪感などでも。

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生きている限り、どこかのタイミングで「自分はズレている」と感じることがあるように思います。こんな感情を抱いていてしまった自分は、平常ではないのではないかと。その結果、社会から切り離された「一個人」となり、抱え込んだ葛藤を上手に消化できず、混沌の渦に巻き込まれます。

そんなとき、アトムとなった一個人に「社会性を取り戻していくプロセス」を文学が与えてくれるのではないかと思います。小説家・北方謙三さんのストーリーが示唆的です。

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(〈物語は何のためにあるのでしょうか〉という質問に対して)

私がね、西アフリカのブルキナファソっていうところへ行ったときに、飢えた人たちがいっぱいいたんですよ。で、奥地に行くと死んだ人がいっぱいいるんです。お腹が膨らんだ子供が手を出してきてね、「ムッシュムッシュ」って。... ... (中略)

私もね、飢えた子どもの前で本が何の役に立つの?って、もう落ち込みっぱなしです。そのまま隣国トーゴの首都ロメに行ったんですね。そこは少し情勢が良くて、ホテルがちゃんとあって、水が出る。カメラマンは喜々として撮影で駆け回っているんだけど、私はそんな気になれなくて、ホテルの前にじっと座っていたんですよ。そこにホテルのコンシェルジュの女の子と、真っ白なワンピースを着た太った女の子がやってきて、並んで座った。見ていたら何か様子が変なんです。白いワンピースの女の子が、ボロボロ泣いているの。ハンカチを持って、ブルブル震えて、ポタポタポタポタと涙を落として。何故、泣いているんだろうと思って見てみたら、本を読んでいたんですよ。コンシェルジュの女の子が、本を読んでいたんです。フランス語を話せるけど字が読めない白いワンピースの子に対して、物語を。そのときにね、やっぱり人間は物語を持っていてよかったんだと思えて、小説家をやめるのを、やめたんです。

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で、そうか、物語っていうのはこんなふうに人の心を動かすことがあるんだ。だから物語を書いててもいいんだ。飢えた子供を救うことはできないけれど、心が飢えた子供は救えるかもしれない、心が飢えた人は救えるかもしれない。創造物って皆さんそうなんです。映画がある、音楽がある、物語がある。いろんな表現物がありますよね。そういう表現物ってやっぱり私の人生の中でも「この音楽があってよかったな。あの音楽に救われたな。あの映画があってよかったな」と思った瞬間が何回もあります。「この物語があってよかった。自分はこの物語があったんで救われた」と思ってもらえるような物語を書ければいいと思います。

(「北方謙三」があなたの人生の疑問を一刀両断 2015年08月05日)

よく、読書コミュニティで結婚するカップルの事例が見られるのですが、「同じ葛藤を抱えた他者」として、身近に共感できる人として見出せたからではないかな、と思います。切り離されたアトムが、また別のアトムとつながる。そうして読者たちの間に「ストーリー」という糸が通り、社会という輪でつなぎ止めていく

文学2.3

昨今、東大の試験日に殺傷事件がありました。犯人で17歳の少年は、非常に勉強熱心でありながら、「東大が無理」と言われたことにショックを受け、心が折れてしまったそうです。

近年の同様の事件にも思うところですが、こうした人たちは切り離されてしまった後も「ズレている感覚」を取り戻すことができず、「社会の輪」に上手に接続し損なった結果なのではと感じます。

誰でも、孤の悩みに直面することはある。まさに、高校や大学の頃の自分みたいに。だとしたら、その「ズレてしまった状態」からいかに接続し直すかが、まさに問われていることであり、そのためにこそ「文学」を読む価値があるのではないかと。

文学3

もし、何かの葛藤で悩んでいるとき。あるいは、身の回りの誰かが内面で苦しんでいそうなとき。そんなときこそ、「文学」を手にとってみてはいかがでしょうか。そして、それが「なんだか難しそうなもの」から「特別なこだわりを抱くもの」になったときにこそ...その人が文学を手に取った、最大の意味になると信じて。

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