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Noteを始めて5周年。私が書き続ける理由

Noteのアカウントを開設して、5年が経つらしい。なんと、もうそんなに経つんだと。私はひとつの物事を何年も続けるのが苦手なタイプなだけに、ちょっと感慨深い。わずかにでもひとつ誇れることかなと感じ、嬉しさがある。

ということで、私にとっての「書くこと」を振り返ってみようと思う。

書きつづける理由

なぜ書き続けるんだろう?

暗闇の洞窟で、たいまつで目印をつけていくような感覚に近い。RPGでいうセーブポイント的な。あるときに自分がどんな興味あったか。大切にしてるキーワードってなんだっけ。アイデンティティを再確認するためのきっかけとも。

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何かと変化の激しい、予測が難しい時代だと感じる。常に暗中模索し続けてる感覚だけど、そんな中でも何かしら「私流の引っかかり」を覚えることがある。

それは「違和感」だったり、「可能性」かもしれず、「好奇心」を注がれる何か。それ(ら)は、人と会って話したり、本を読んだり、街を歩いている中で、自然と湧いてくる。

何もしないでいると、消失してしまう。それが非常にもったいない。私が出会った「それ(ら)」を、何かの形で残したい。だから文章で言語化を試みる。そのとき、その瞬間にしか感じられなかったであろう、私なりの感性に根づいた何かを。絶え間なく変化していく趨勢の中で、その蓄積こそが唯一、私を私自身として自覚させ続けるためのツールとして、灯台のように方向性を指し示す。

「書くこと」、特に私はだいぶ習慣化してるように思う。もともと、口頭で話すのが上手でないがため、筆談できる文章に向かったのだろうと思う。中学生の頃、不登校で思い悩んでいる最中、父が連れていってくれた精神科医のカウンセリング。手の平サイズのメモに、上下みっちり自身の内面を綴った文章を片手に握り締めて、先生のデスクへ向かったのを今も覚えている。

あれから10年以上も経て続いているのだから、おそらくこれから残りの人生もし続けているのだろう。私にとっては、「口頭で話せない」象徴のようで、かすかに負い目もあった。ただ、自身が延々と続けられる得意なことを、人はコンプレックスに感じやすいのかもしれない。

リフレクションのためにも、続ける価値はある。二千年以上も前に生きたローマ皇帝が気ままに書いたメモの一覧が、未だに何万部も発行されて日本人の手元に渡ったりするが、この『自省録(=「自」らを「省」みる記「録」)』という行いには、それだけの摩訶不思議なパワーがあるのだろうと思う。

書いたことから、つながる人の縁

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「書いたこと」の成果は、単に自身の内側に向かうだけでなく。外向きに人とつながる契機にもなる。

近況で興味のあることを定期的にアップデートしてると、たまに良いことが起きる。読んでいる本の系統でも、学んでいるデザインソフトウェアでも。「全く同じことに興味あった!」と知人友人から連絡がきたり。ブックデザインの案件をいただいたりもした。過去には、コロナ禍のステイホーム期に株をゼロから(同一タイミングで)やり始めた友達もいて。以前はそこまで話したことがなかったけど、共通の関心事を通じて打ち解け合う。めっちゃ楽しかった。

SNSでよく投稿してると「自慢気だな」と斜に構えてしまいがちでもある。ただ私的には100人アクセスしてくれた中で、その内のひとりにでもめっちゃ刺さる瞬間さえあれば、それだけで大いに価値があるのだと思う。現に、そうして個人的に仲を深められた人たちが何人もいた。

過去に自分が書いたものを読んで、いたた…と恥ずかしくなることも、何度もある。今の自分からしたら、一年も前の自分はいつも未熟に見える。経験不足な上でだいぶ語ってしまっていて、インフルエンサーのように大した発信力があるわけでもない。それでもなぜ続けるかといえば、どこか人との関係を一歩深める契機が作れるからかもしれない。

AI時代に「書く」こと

そんな「書く」ことだが。機械の「書く」スピードと質がぐいぐい上がってきている。昨今の流行で、NoteにさっそくAI機能が付けられた。ChatGPTを利用して、SEO対策を練った記事を大量生産して稼げる…てツイートもよく目にする。実際、文章をコンテンツの生業とする人からしたら、願ったりの機かもしれない。

AIが活況に沸く中で、一人間たる私が両手をマニュアルに使いながら、どうして自身の経験や思いをいちいちタイピングするのか。

私も使ってみた感覚として、AIツールは「0→60%」の作業を時短化するのに向いてるなと思う。より細かな条件を付与して、きっちりと密な指示をすれば、60%→85%くらいも、たぶんできそうだろう。

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ただ、85%→100% (あるいは読者に110%、120%と超えて訴えられる"何か")をしていくのに、人間のマニュアルな部分が必要だと感じる。あくまで知的活動(調査や要約)が目的であれば別かもしれないが、AIが生み出した数々の文章を読んでいると、コンテンツ的にはどこかいまひとつ「刺さってこない」「突き抜けない」ような感覚を覚えることがある。

うまく上手にまとまってるし、要約力は高い。ただどこか人間の最後の残り香を匂わせない感覚めいたものがある。詩的というか、比喩的というか、特定の裏付けされた経験のもとでしか紡ぐことのできない、内情的なコトバというか。

今後性能が上がっていくだろうし、私のこの違和感ももしかしたら、なくなっていくのかもしれない。ただいずれにしても、私は今時点の感覚を信じる限りは、こうして自らの脳と手を駆使して「書く」ことをし続けるのだろうと思う。

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