創立800周年、中世由来の大学へ日本人が入学して感じた、アナログっぽさ。
イタリアの大学院行きを決めてから、ちょうど一年が経ちました。
具体的に個々で振り返っていきたい面もあるのですが、この一年間に渡るイタリア生活をまず総じると、「アナログ」というワードに尽きました。
創立800周年を迎えた大学
振り返ること、私が通ったヴェネト州のパドヴァ大学。創立が1222年9月29日ということで、奇しくも私が入学したタイミングで、800周年を迎えました。
鎌倉幕府クラスの歴史を持ち、今も現役の大学とは、どんな感じなのだろうかと…。21世紀のスマホ時代・東京に生まれた自分が、ガリレオが講義をした中世大学に入学できるという、不思議な好奇心も合わさって、入学しました。
(ちなみに、これでもイタリアでは2番目に古い大学で、最古は1088年創立のボローニャ大学に譲ります…!)
イタリア、中世のようなアナログさ
そんなイタリアの学生街でひととおり過ごした中で。他の欧米諸国と比較しても、「アナログさ」をめちゃくちゃ感じさせる国だなと思いました。
「まるで中世のような」。建築や芸術に限った話でなく、人々のライフスタイルとか、普段の日常的な価値観からもそんな印象を色濃く受けます。
例えば、干潟に浮かぶヴェネツィア。私の大学から近かったため、十何回と訪れてすごく愛着のある街になったのですが…。驚いたことに、現代的な移動手段の車・バス・電車がまったく通っていません。自転車ですら乗るのを禁じられていて、破ったら罰金刑が発生します。
なので基本的に市内の移動は、徒歩か水の上(ゴンドラ/水上バス)。現代の大都市圏の生活からは、まったく想像がつかないような独特っぷりです。鉄道やUberが存在せず、その道30年のゴンドラ乗りが今も現役という世界。
「アナログで、中世っぽい」要素は、他にも感じ。ヴェネツィアのとあるレザー文具店('Manufactus')に何度か通う中で、そのアンティークさに惚れ惚れとしました。
古風なレターセットから、手漉きのような触り心地の紙でできた手帳。昔の貴族が使っていたような羽根ペンから、封蝋(ふうろう)もあります。中世ヨーロッパを舞台にした映画でよく見かける、蝋を垂らして紋章で封をするアレですね。
コロナ禍でリモート化が進んで、紙印刷も淘汰されていく時代。自身もハンコに特別な愛着を感じるわけでもなく、多いにデジタル推進派な一方で、イタリアのアナログな「文具」にはどこか強烈な特別感を感じました。
親しい友人・家族から代々と受け継がれていき、何十年と使われていきそうな。15~30秒間のインスタントでShortsな動画を消費する日々とは真逆そうな、その「重厚な」感覚に何かの意義を感じました。
「制限」によって生まれるモノ
換言すると、こうした「重厚な」感覚が生まれるべく、ある種の「制限」をかけることにイタリアは長けているのかもしれません。
「ヴェネツィアでは車も自転車も禁止」
「建物を新築するには、扉の色から素材まで細かく統一させなければいけない」
「日曜の午後にスーパーは空けない」
デジタルで資本主義的な、「どこまでも自由に拡大して突き進んでいく」のと対照的に、アナログで伝統的な、「過去を保全して貴重な文化を守り続ける」態度。
前者の「究極な自由」が、GAFAなどのプラットフォームに象徴されるかもしれません。どこでも、いつでも、あらゆる情報も物も人間関係も、個人の願望で24時間365日アクセスできるようにする。
一方で、「自由」の価値には疑問符も。人は選択肢が多すぎると困惑し、側から見たら単純な結論に着地することも多いですね。
一例では、マッチングアプリに疲れたという現象。24時間、常になんでも選べる状態は、逆に精神的な負荷をもたらすことがありそうです。「行きすぎた自由な状態」に、ある種の制限をかけられることが望まれているのかも。
政治哲学の領域では、マッキンタイアやサンデルらの提唱する「コミュニタリアニズム」に近い感覚かもしれません。共同体主義とも訳される言葉ですが、その「共同体」という枷(=制限)のもとでこそ、強いパフォーマンスを発揮できる。
イタリアはこの典型かもしれません。パルマという人口20万人規模の街で「生ハム」ブランドを確立させ、キャンティ地方の「ワイン」が欧州を席巻したり。
ローカルで小さな町が、世界が認知するレベルのブランド力を産出できる背景。一個人の自由を極端に追求した大都市圏とは一線を画す、「共同体主義」的な空気のもとでこそ生まれるのだろうか、と感じさせられます。
デジタル的なプロテスタント、アナログ感のあるカトリック
関連して…。イタリア滞在中に読んだことで、深く心に染みた本があります。社会学者マックス・ウェーバーの著書で、要約すると「資本主義の発展を、プロテスタンティズムの倫理観から読み取る」というもの。
その「プロテスタント」的な代表的人物として、アメリカ建国の父とも言われる、ベンジャミン・フランクリンを挙げています。
「時は金なり(=Time is money)」という、有名な標語ともなった由来の人物ですね。これを「努力家」とポジティブに捉えるか、「欲深い」とネガティブに捉えるかは解釈次第です。ただ、日本人的な感覚(「真面目さ」や「勤労」が肯定的に捉えられることが多い)に触れていると、比較的理解しやすい考え方なのではないでしょうか。
それがイタリアという真逆なカトリック圏にいたことで、この種の「努力や効率ベース」な考え方がとても普遍的とは言えないのだと深く考えさせられました。
前者はデジタル的(speedy)、後者がアナログ的(slow)なものと被ります。情報を0と1の記号に分割し、どんどん素早く効率的に処理していくのに対して、スローでローカルな文化(=重厚な感覚)は、時針を気にせずにじっくり堪能する。
文字通り、金融やテクノロジー(=デジタルなものと相性が良い)が発展したのは、ロンドンやアムステルダム、ニューヨークなどの英米蘭などですね。
その一方、芸術や建築(=アナログな要素を多分に含む)が盛んなのは、イタリアやスペイン、ポルトガルなどの南欧を中心とした国々です。
思えば、かつて滞在したことのあるオランダやイギリスには割とすんなり適応できた記憶があるのに対して、イタリアは異質さを常々意識しました。長蛇の列で3~4時間は待つ郵便局、A4の紙一枚を印刷するだけで町中を歩き回る苦労、購入したチケットが全て消失するバス会社のアプリ……。
またアカデミックな側面でも、世界大学ランキングで上位に与るのはプロテスタント圏が圧倒的に多いですね。欧米圏ではアメリカとイギリスが上位のほぼ半分以上を占めるのではないでしょうか。カトリックの南欧と比較して、北ヨーロッパ(ドイツ、オランダ、スウェーデン、ノルウェー等)の大学群のほうが水準が高いように見受けられます。
そんな風土の違いを大いに意識し始め、私は残りのもう一年間を異なる国の大学院で過ごすことを決めたのですが、それはまた次回に……!
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