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互いを思い合っていてもときに対話は難しい

昨夜、妻と少しケンカをした。

きっかけは、再来週に控えている引越しだ。新居での家具の配置について、少しモメてしまった。

問題になったのは、本棚だ。職業柄、私はビジネス書を読むことが多いし、私も妻もマンガ好きだ。そのため我が家には、大小合わせて6つの本棚がある。とくに悩ましいのが、私が学生時代に買ってもらった、身の丈を超える大きな本棚。それをどこに置くかを、昨夜話した。

基本的に、妻にはこだわりがない。一方で、在宅勤務の多い私にはデスクや本棚の配置など、いろいろと構想があった。とはいえ妻の希望を無視したいわけではない。二人で住む家だし、娘の都合なんかは妻のほうがよくわかっている。そこで私は、妻に「希望があったら教えてね」と聞いてみた。

ところが妻は、「そっちの方がこだわりあるんだし、自由に決めていいよ」と言う。別に投げやりというわけではなくて、本心から、判断を委ねてくれているのだ。

でも私が聞きたかったのは、そういうことではなかった。こちらにこだわりや構想があるとかは関係なく、希望があるなら話してほしかった。そして、お互いの希望を擦り合わせて、互いに納得できる妥協点を見つけたいと思っていたのだ。

私は本音を話してほしかったのに、妻は私に気を遣ってくれてしまった。どちらも、相手のことを思っての発言ではある。どちらかに原因があるわけではない。誰も悪くはない。でも、発言の「意図」が噛み合っていないから、対話にはならなかった。

「こっちにこだわりがあるとか関係ないから、希望があるなら言ってよ!」
「だから、やりたいことがあるなら、それでいいって!」
そんな感じにヒートアップして、会話は終了した。

議論ではなく、対話を。
これは近年のビジネス書におけるトレンドでもある。でも、「話し方」を変えるだけで実現するのは難しいのかもしれない。「率直に話してほしい人」なのか、「相手を尊重したい人」なのか。価値観や育ってきた背景も考慮して、言葉の裏にある認識のレベルから擦り合わせていかないと、対話なんてできない。そもそも、相手が対話を望んでいない場合もあるかもしれない。

そんなことを、昨夜の会話から考えた。

ちなみに私も妻も、一晩寝れば険悪なムードは忘れる人間。今朝はケロッとして、普通に会話した。
オープンを心待ちにしていた近所のケンタッキーに一緒に買いに行き、「今日はパーティーだ!」とか言っている。こういう価値観が一致しているところは、本当にありがたいな。

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