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『夜と霧』が、僕たちに問いかけるもの

遠くて近い異国で起きていることに想いを馳せる。

圧倒的な力の前に、僕たちはちっぽけな存在なのかもしれない。
愛する人たちが離ればなれになり、美しい国が蹂躙される様子を無力感とともに眺めているしかないのだろうか。


人間の本質

V.E.フランクルは第二次大戦中の強制収容所での極限体験をもとに『夜と霧』でこう書いた。

"人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。境界線は集団を越えて引かれるのだ。したがって、いっぽうは天使で、もう一方は悪魔だった、などという単純化はつつしむべきだ"
『夜と霧(新版)』P144「収容所監視者の心理」より
"人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかを常に決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ"
『夜と霧(新版)』P145「収容所監視者の心理」より

いま、この意味を噛み締める。

単純化すれば分かりやすいだろう。でもそんな簡単に世の中はできていない。コインの裏表のように、立場や状況が変わればひっくり返ってしまう。

ひとりの人間の中にも、複雑なコントラストがある。あなたの敵だと思っている人は、誰かにとってかけがえのない人でもあるかもしれない。



奪い去ることができないもの

国境・カネ・物資…権力は様々なものを奪うことができてしまうことを僕らは目の当たりにした。

それでも奪うことができないものはあるのだろうか。

フランクルは収容所のなかで、希望の世界を見出す人たちを目にした。

・労働後の移動列車内で紙に祈りを捧げる人
・食事休憩中にオペラを歌い出す人
・いかなる時もユーモアをもって励まし合う人

そしてひとつの考えを示している。

”人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、与えられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない
『夜と霧(新版)』P110「精神の自由」より
”人間はひとりひとり、このような状況下にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ
『夜と霧(新版)』P111「精神の自由」より



生の意味

フランクルはまた、生きる意味についても触れている。

"わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ"
『夜と霧(新版)』P129「生きる意味を問う」より
"自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ"
『夜と霧(新版)』P133「なにかが待つ」より

僕たちはよく人生の意味を問う。どんな意味があるのだろう?生きていて何が良いのだろう?と。

でも同時に。人生もまた僕たちに問いかけていることを忘れてはならない。

いま、あなたは未来に何を提供できる?
じぶんのために、かけがえのない誰かのために、具体的に何をなすだろう?


大きな力を前に、ひとりひとりができることは限られているかもしれない。

それでも祈りながら、僕たちは今日できることを積み重ねるしかないのだろう。



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