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【挑戦という生き方:2】 自己紹介とシアトルでの経験からクラフトチョコレートへの挑戦

前回まで、初投稿ということで記事を書くことに夢中になりすぎて、肝心の自己紹介を本気で忘れてしまった。なので今回では改めて、自己紹介も兼ねて僕の生い立ちから、クラフトチョコレートに興味を持った原体験を中心に書いていきたい。

■お菓子もチョコレートも無縁な単なるビジネスマン

改めて、僕のnoteを読んでくれてありがとうございます。佐々部一宏と申します(写真が僕です)。僕は神奈川県横浜市出身。1991年1月30日生まれ。A B型。趣味はトレイルランニングと登山(趣味ついてもいずれ触れたいなあ)。

「そもそも事業を立ち上げるような人って、どこか別世界の人なんじゃないか」

そう思う人も多いと思うので、そんなことないよ、ということで簡単に僕の家庭環境や生い立ちを紹介しようと思う。

僕の家庭は父母・姉2人、父方のおじいちゃんとおばあちゃん、犬1匹(メスなのに名前はケビン)の2世帯家庭という、比較的どこにもありそうな普通な中流の家庭に生まれ。父と母が、祖父が始めた小さな地元の建設会社で一緒に自営業をやっており、両親の帰りが遅くなることも多かったので、僕は小さい頃からいわゆる「鍵っ子」だった。

教育は地元のごくごく普通の公立の小・中学校に通っていた。理由は単にその学校が学区だという理由だ。
また僕はサッカーをやっていた。確か小学3年から中学3年までの8年間。ポジションはコーチに体型を見込まれてGKだった。別にそこまで特別な才能をもった選手ではなく、地区の代表に選ばれたり中学では関東大会に出場はしたけどその程度。プロになろうともは思ってなかった。でもサッカーが好きだったので熱中はしていた。

中学後の進路はというと、真面目に勉強していなかったので(というか、好きな理科と英語以外は一切勉強してなかった)、公立高校に落ち、サッカーも自分にはGKに必要な身体的な才能がないと中学時代で諦め、進路が決まらないまま卒業式を迎えるという、ちょっとした問題児ではあった(卒業式の時に進路が決まってない奴って、普通いないよね)。

選択肢が限られる中、卒業後も入試をやっていた神奈川湘南にある私立高校に入学することができた。

とはいえ、元々学校というところ自体が嫌いだった性分だ。
また高校時代も好きな理科系科目と英語以外の勉強は全くせず(社会文系科目はいつも赤点)、部活も入らず、刺激も挑戦もない平凡すぎる高校生だった。

高校卒業後は、都内の工学系の私立大学に入学し、アルバイトや留学はしたものの、特に学生ベンチャー的なこともせず、わりかし平均的な学生生活だったと思う。そんな大学生活も、6年間もかけて何とかギリギリで卒業したような感じだった(大学院行ってないよ)。

ちょっと危なかっしいと思われるかもしれないが、ここまでの経歴を見れば、都心地域では平均的な人間だと思う。

大学卒業後は、アクセチュア株式会社というコンサル会社に入り、もともと3年間修行のつもりで入ったので3年間勤め、予定通り(?) 3年で退社した。その後は「親の跡を継ぐのだろう」という周りの期待に従うように、実家の小さな建設会社に戻って、平凡な日常の中で仕事をする日々を過ごしていた。

(アクセンチュアのマレーシアでの新人研修。懐かしい...)

ここまでの僕の人生は、チョコレートどころか、お菓子にも無縁だった。
当然、趣味でお菓子を作ったこともないし、作ろうと思ったこともない。
起業みたいなことにも挑戦したことはない。

まあ食に関しては、美味しものを食べるのは好きではあるけども、それは社会人になった上で、いろいろな人と会う中でも恥ずかしくない程度の教養や経験を身に着けるために食べることが目的。
お菓子もコンビニでグミ(オレンジ味)とかドライフルーツ(カッコ良い言い方してるけど、単なる梅干し)を食べる程度で、チョコもGODIVAを知っている程度。そんな感じだった。

■留学先のシアトルという街

「スターバックス」 「Amazon」 「MicroSoft」 「コストコ」 「ボーイング」

誰もが知る世界中でお馴染みの超有名企業。
今や生活に欠かせないサービスや製品を提供する企業。
こうした企業が生まれたのがアメリカ西海岸ワシントン州にある「シアトル」という街だ。

大学生3年の20歳の時。僕は1年間、このシアトルという街に留学した。
9.11同時多発テロの不況から続く流れで、1ドル=85円という、今では想像できない超円高の時代だ。

今思い出しても、このシアトルという街は超刺激的だった。
そして僕自身も、最も多感な時期だった。

そんな僕がそんな街で1年間も過ごすとどうなるか。
まだそのアウトカムは出ていないが、ある程度その後の僕の運命を多少なりとも決定づけたのはないか、と思っている。(運命論的なことではなく、価値観形成に大きな影響を与えたという意味で)

(ハロウィーンでやった仮装。みんなちゃんと立派な社会人やってます。)

■井の中の蛙が大海を知っちゃったら:

僕は、今でもシアトルで過ごした日々の光景が忘れられない。

・オーガニック食品だけを扱う巨大なオーガニックスーパー
・日々至る所で開かれるオーガニック野菜を扱うファーマズマーケットやその情報を集約したWebサイト
・菓子コーナーで100種類以上のオーガニックチョコが揃われてる光景
・チョコレートファクトリー兼販売店という日本では当時みたことない店舗スタイルで、たくさんの人が商品を買っていく姿
・色々あるチョコレートの味の違いの中から、自分の好きなものを楽しげに探し、僕に熱っぽく紹介してきたアメリカ人のおばさん
・シアトルという「ワインのシリコンバレー」みたいな土地で、イタリアやフランスなどの世界中からワイン作りをスタートする若者たち

明治時代のはじめ、岩倉使節団の福沢諭吉らが船でアメリカに行った際、彼らはどのくらいの衝撃を受けたのだろう。
僕には想像もつかないが、その後の福沢諭吉らの活躍と日本社会への影響を見れば、別の惑星に行ってその星の生物たちの生活をみたくらいの衝撃だったのではないかと思う。

僕も福沢諭吉ほどではないが、やはりこのシアトルという街では日々衝撃の連続だった。アメリカの田舎町に留学していたら、今の僕は絶対にない。
シアトルだったからこそだ。それほど、シアトルという街では色々な見方ができる街だった。色々な最先端があり、多くの若者が各分野で挑戦的な活動をしていた。

・コーヒーが盛んで
・アートが盛んで
・音楽が盛んで
・ワインが盛んで
・スタートアップベンチャーが盛んで
・環境ビジネスが盛んで
・スポーツが盛んで

「多様性」という言葉が、まさに当てはまる街。

多様性とは「違いを認めあう社会」ではなく、さらに一歩踏み込んで「様々な違った物や価値観があり、その中から自分が好きな物を自由に選択したり挑戦できる社会」だと僕は思っている。

シアトルは多様性の街だった。これだけ多様性のある街の中で、なぜか僕は「オーガニック」と「チョコレート」が、もの凄い印象的だった。

当時の日本には「オーガニック食品の専門店」といえば、街中に小さくポツポツある程度だった時代。

しかしシアトルではすでに、大手スーパーが当然のように扱い、そこに住む人々も当然と買っていく文化の衝撃。

チョコレートにしても、フェアドレードのカカオを使い、高カカオを使い、単に味の衝撃だけではなく、その背景にあるビジネスとしての革新性への衝撃。

「仕組み」が、あまりに衝撃だった。

僕は、シアトルでそうした「食」に対する、特にチョコレートにおける日本で見たことない光景を実際に体験して、ふと思ったのだった。

生産者と消費者は繋がっている。地球は1つなんだ。
消費者の行動や考え方が、生産者を貧しくもするし豊にもする。
そして、それを仕組みにしているのが企業であり社会なんだ。
アメリカでは、既にお互いが幸せになる仕組みを作っている企業があるし、それを理解した消費者もいる。
それに比べて日本は、自分達さえ良ければという考え方が一般的ではないだろうか・・・

当時の学生だった僕が漠然とそう感じたことを、今でもハッキリと覚えている。

■「かっこいい」ってなんだろう?

突然だが、「MOTHERHOUSE」という革ブランドをご存知だろうか?
MOTHERHOUSEは、バングラディッシュの貧しい人たちが現地で製造した革製品を扱うブランドで、ソーシャルビジネスとして、成功収めた企業の1つだ。

僕はこの「MOTHERHOUSE」が大好きだ。

(僕も愛用するマザーハウスのビジネス用のバックパック)

プライベートと仕事の両方で、MOTHERHOUSEのカバンやリュックを5種類くらい持っているし、普段から使っている。
このMOTHERHOUSE、値段は決して安くはない。一番愛用しているリュックは4~5万円はしたはずだ。

ただ誤解して欲しくないのは、僕は、そのビジネスモデルとか倫理性だけに賛同して買っているのではない。興味の入り口は、確かにソーシャルビジネスだったが、それだけなら、1つだけ買って終わっていたはずだし、使い続けないと思う。

僕はMOTHERHOUSEのセンスの良さ、コンセプト・商品デザイン・品質・店舗サービスも含めた、トータルとしてのブランドが好きだから買っている。
4〜5万円するリュックも、その値段以上の価値があると思っているから買っている。そしてそのブランドが好きだから、何度も買っている。

■日本は、アメリカの10年は遅れていると思った

なぜMOTHERHOUSEをここで出したのか、このまま読み進めれば分かってくるのだが、ここでは一旦説明をしないで、僕が留学を終えて帰国後の話に移りたい。

僕が帰国し、就職活動をしていたとき、「ソーシャルビジネス」という言葉が注目を集めていた。

3.11の東日本大震災。

この未曾有の大災害後に、NPOやボランティアが注目を集め始めたように思う。
それこそ「教育系」「貧困系」「環境系」・・・様々な分野で「ソーシャルビジネス」を立ち上げる「ソーシャルアントプレナー」と言われる高い志と外資金融やコンサル出身者のような高いスキルを持った人たちがNPOを立ち上げ、その分野の課題を解決しようという流れが生まれていた。

そして、僕が就職活動をしていた2013年くらいでも、一部の学生の間では、そういった「ソーシャル」分野に対する熱い想いを持ち、そしてそこに挑戦しようと志望する流れもあったたように思うし、実際に僕も大きな興味を持っていた。

シアトルにも「ソーシャルアントプレナー」と言われる人たちがいたし、そういった人たちとも僕は交流があった。

一方で僕は漠然と直感的に、日本における「ソーシャル」に対して、なんとなく違和感も感じていた。冷めた見方と思われるが、どこか腑に落ちない感じ。

シアトルで見て感じたものとは、言葉には出来なかったけれども、直感的に違う、間違っていると感じていた。

今になって当時の僕が持っていたモヤモヤを言語化すると、多分こうだろう。

ビジネス的な要素、つまり市場主義経済システムが宗教のように支配する社会において、このシステムに乗らない活動は、お金も集まらないが故に、どうしても部分解決でしかなく、スケールが出来ず、結果的には、仕組みとして定着もしないし解決にもならない

そう思っていたのだと思う。

ソーシャル・ビジネスと普通のビジネスは相反するもの
「利益を求める企業vsソーシャルビジネス」

みたいな構図があったように感じる。

要するに僕はビジネスがしたかった。
規模が大きくて、かっこよくて、グローバルで、一流のクライアントを相手にした仕事がしたい。その上で社会に役立つことがしたい。だからアクセンチュアという会社に入り、社会人としての基礎スキルを身につけつつ、そこに関われるなら関わろうと思った。

至って、純粋無垢な考え方ではないか。

(その3に続く。)

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