【学会終了報告】ありがとうございました。そして思う「分かること」と「ワケの分からないこと」について。
大変ご報告が遅くなりましたm(_)m
タイトルの通り、学会発表が無事終わりました。終了後も提出資料などがあり(しかも締め切り直前に確認したら英語で提出と書いてあり震えた。DeepL様・・・拝)終わった感が薄いまま一月近くが経過してしまいました。普通の仕事に比べて、「終わった」感も「やりきった」感も、不思議とないのです。やっと入り口に立てたかな、っていうか発表ってこれで良かったんだろうか???(検証のしようがない💦)とフワフワしながらまた次へと走り出している気分です。
とはいえ振り返ります!
直前まで発表内容のスクラップ&ビルドを繰り返し、まったく出来る気がしない、と思いながら仙台入り。
学会始まっても、レセプションの合間に教室の先生方を捕まえてビュッフェのテーブルの隅っこで発表を見ていただく日々。
前日深夜というか当日早朝までサポートいただき、
なんとかやりました。顔が死んでいます(笑)。
終わって、フラフラと会場を出て初めて、仙台の紅葉がとても美しく色づいているのに気づきました。
共同研究チームの(一社)恩送り様、とSONYのチームのみなさまと!
東京からデモ機を持って駆けつけてくださいました。ほんとうに最高のチームで研究させていただき心より感謝。
研究内容に関しては詳しくご紹介できませんが、ソニーのテレプレゼンスシステム「窓」を使って、デジタルコミュニケーションについての研究をしています。
テレプレゼンスシステム「窓」(ソニー)についてはこちらをご覧ください。
東京から東北大学に足繁く通い始めて約半年。ついにやっと牛タンも食べられました。待っていたこの日を・・。
学会といえば、物理学会と臨床心理学会しか出たことがなく、医学の学会など見たことすらない中の発表で悪戦苦闘の連続でしたが、研究室の先生方のサポートでなんとか国際学会の発表にこぎつけることができ感謝でいっぱいです。研究室のみなさん、心底優しくてステキな先生方ばかりでこの謎の「ホリスティック」界隈から来た現在医学のお作法など何もわかっちゃいない「ボディーワーカー」とやらに根気強く指導いただきました。
発表原稿を作っていたら
「小笠原先生^^」
「医学学会の発表は^^」
「面白い必要はありません^^」
と言われて、「終わったw」と思ったことはナイショです。
自分の講座は、いかに難しい話を面白くわかりやすく伝えるかということに命をかけていたというのに面白さを封印されるなんて!
おかげさまで、人生で全く新しい経験ができました。思えば今年で46歳。46歳って社会ではそこそこいい歳ですよね…。個人事業をやっていると、ひたすら偉大な先輩の背中を追っている状態で、下から入ってくる人もおらず、自分のキャリア感というものが良く分からなくなるのです。分からないからこそ飛び込めたのかも知れないとも思うわけですが、なんだかいつまでもぺーペー気分があるのです。何しろ、この歳で完全に新人として新しい世界を経験させてもらっている毎日。
講座や講演はこれまでもやってきていますが、熱く感想を語りに駆け寄ってくださる方も、名刺交換もなく、終わった後のFBフレンド申請の嵐もチャットのやり取りもなく、粛々と新人として発表し、粛々と去り、ひたすら他の発表から学ぶことばかりだった学会期間は、これまで自分がやってきたことを、同じ「ヒトの健康」を扱っていても対局の視点から眺めるいい機会となりました。
そこで感じたことはここには書ききれないくらい。でもひたすらひたすら、楽しかった…(自分の発表が終わってからは特に)。
ボディーワークは比較的「オルタナティブな」ケアの領域なので現代医学に対して不信感を持ったり「医者なんて」「西洋医学なんて」と分断を作る人もいるけれど、いやいや「安全」をベースとした医学のヒトを扱う視点の丁寧さは絶対に軽視すべきものではないとつくづく思います。一人称のQOLという個人を深く見る力と、大局的・客観的にサイエンスで人や結果を評価できる視点と、両方あってのセラピーですから。
神経科学についてこってり4日学んで、最終日にふとポスターセッションを抜け出して初めて会場裏の公園を少し散歩しました。
外に出て深呼吸し、色とりどりの木々の中を歩き、川の流れを見ていたらふと
「ヒトについて分かったと思う毎に、
生きている実感からは遠ざかる」
と言う言葉が身体の奥から湧き上がってきました。
病気の診断ができても、さまざまな治療法や議論について知っても、神経科学について学びが深まりまたヒトの仕組みの面白さを味わっても、それは
落ち葉の上を歩く感触、からだに入ってくる空気の冷たさ、空の青さと広さを味わうこと、自然の営みの一部としての自分を感じること・・そうした「生きている実感」とはまったく別のレイヤーでの出来事。
研究は面白く、ヒトについて未知の側面から 新しいことを学ぶことは楽しく、一歩毎に新しい地平が広がり、 読み解けることが増えてゆく。 けれどそれで何かが分かったなどと、 ゆめゆめ思ってはいけないのだ。 学ぶことと感じること。 この両方を常にこの身体の中に同居させていきたい。
わたしが真にこの人生で、味わい、それを分かち合いたいのはこの身体の内側からの実感としてのLIFEなのだと、それを決して忘れないようにしようと、会場を外から眺めながら改めて心に誓いました。
これから自分が「ヒトについて分かった」と思ったときには、あの落ち葉の道を思い出すことにしよう。それはなにかわたしにとってとても大切なことのような気がするから。
終わってまたセッション三昧の日に戻ってみると、マッサージテーブルでそっとクライアントの身体に触れてその微細な生命のリズムと自己調整の動きを感じる…
「…ってなんて医学から遠いワケのわからないことやってるんだ!」
と思うわけです。そして同時に、このワケのわからない、医学的には一ミリも賛同されないであろうコンセプトの中で(笑)、身体の内側からの実感としてのLIFEをともに味わうボディーワークの重要性というかpreciousさを、これまでにないくらいの強い確信で思うのです。
帰ってきて最初に、クラニオのセッションでクライアントの身体に触れた瞬間、その実感に全身が打たれて思わず呆然と天を仰いでしまった。
わたしがやっていたことってなんて素晴らしくって、なんてステキなことだったんだ…!涙。
医学でも心理学でも扱えない、いのちの質感。ビバ、ワケのわからないこと!!
ということで(どういうこと?)、これからも、「ワケの分かること」と「ワケの分からないこと」の両方を大事に研究生活とボディーワークの臨床を続けていきたいと思います。
追いつかない日々の発信は、音声メディアを始めようと思っていますのでそちらもどうぞよろしくお願いいたします。
そして明日もまた仙台だ🚄
ここから先は
オガサワラカズハ研究生活応援マガジン
ボディーワーカーをしつつ、尽きることのない人の「心と身体」への興味に突き動かされ、東北大学医学部大学院で「拡張した心」をテーマとする研究生…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?