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渡来人に関する妄想をハプログループから検証してみた

過去に、楚の王族・熊氏が日本に渡来して九州の「熊襲」として勢力を誇ったという妄想記事を書きました。本日は、その妄想の信憑性がどこまで高いのかを、サイエンス側からアプローチしてみたいと思います。ちなみにキングダムに登場する昌平君・昌文君いずれも「熊姓」です。

<妄想説のまとめ>
1.古代イスラエル人が中国大陸に移り住んだ
2.彼らはシオン=匈(奴)、熊(氏)となった
3.熊氏=楚の王族は、日本で熊襲国を造った

出アフリカ後・北ルート

まず1.や2.については、下記のハプログループの大まかな分布ルートから判断して、間違いないと思います。

ハプロ1

この中で注目すべきは、「出アフリカ後・北ルート」です。分かりやすいように、太い赤線でなぞってみました。

ハプロ2

一部は「西の羌族」エリアから山東省(斉)あたりで中原の漢民族と結合しました。これが恐らく後に呂氏になる勢力だと思われます。(詳しくは呂尚の記事をご覧ください)

一部は華南へ向かい、長江文明を築き、呉・越が激しく戦った会稽あたりから東シナ海を超えて日本の九州に入ります。この一部が後の楚の王族・熊氏であり、熊氏が九州で熊襲を名乗ったと思われます。これが3.ですね。

どちらも日本で「弥生人」となります。私の遺伝子は検査の結果、後者の華南人のハプログループに属しています。つまり、昌平君の子孫かもしれません(大げさ)。

ハプログループによる比較

では次に、人種ごとのハプログループ構成を比較してみましょう。

ハプロ比較

羌族と華南人においてほぼ同数で共通しているのがO1bハプログループです。出アフリカ後・北ルートの遺伝子グループです。赤線で示した通り、途中まで「出アフリカ後・北ルート」以降のルートが一緒であるO1bに注目しました。O2が多いのは、前述したうちの前者で漢民族と混血したかどうか、です。

では次に、日本人(東日本・西日本)と華南人を見てみましょう。日本人にもやはりO1bが共通して含まれていますね。日本人にO2よりO1bが濃いのは、華南人が漢民族と深く同化していく前に、つまりまだO1bハプログループが濃い時期に、日本に渡ってきたと思われます。

もともと日本に住んでいたと思われるアイヌ人には、このO1b系統がゼロです。

あながち間違いではない妄想

これらのことから判断すると、縄文時代~弥生時代にかけて、O1bハプログループが華南や遼東半島から日本に来て勢力を拡大しつつあったと思います。

これによって、2つの妄想説については信憑性が高まりました。

1つは、「呂不韋が実は徐福で、徐福が呂氏春秋を日本に伝えた」妄想です。時期的・ハプログループ的に完全に間違いとは言えず、むしろ可能性がある説であることが分かると思います。呂不韋が徐福だったことはおいといて、この時期の中国からの渡来人が弥生人になったはずです。

もう1つは、華南にいた楚の王族=熊氏が、九州に上陸したという妄想です。これが熊襲になったはずです。

<過去記事からの引用>
楚は北から来た漢民族と、南方から来た民族が混じり合っていました。私は、この南方から来た民族の中に、母国を追われて逃げてきた古代イスラエル人(ユダヤ人)が含まれていたのだと思います。楚の王族は代々古代イスラエル系(ユダヤ人)だった。(「楚王の姓①」より)

北ルートで中国に入った氏族は、徐々に東へ移動しながら、その一部が匈奴になったと思います。(「楚王の姓②」より)

紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃までを、一般的に弥生時代と言います。キングダムが描かれている紀元前3世紀~紀元後1世紀あたりに、現代日本人に繋がる渡来人が大量に日本に来たことになっています。時代背景としても、申し分ない。

これから、サイエンスでどこまで明らかにされるか分かりませんが、歴史にロマンを感じて生きるのも楽しいですね。

最後に。下記の画像は、華南人が活躍していた時代、越王・勾践の剣です。一切錆びておらず、文様まではっきり見える剣は、紀元前5世紀のものです。また歴史の旅を再開したいです。

越王勾践コラ

(湖北省博物館にて著者が撮影 2019年10月)

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