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楚王の姓②

武漢

画像は黄鶴楼の最上階から見渡した、武漢の町並み(2019年、著者が撮影)。武漢には、あの赤壁があることでも歴史的に有名ですが、水路も多く昔から交通の要所でした。今回は前回の記事に引き続き、「楚」の熊姓から妄想を広げてみます。

「シオン」がもう1つあった

前回の記事では「熊襲」は古代イスラエル人(古代ユダヤ人)だったのではないか?という考察をしました。

「熊」は中国語で「Xiong(シオン)」と読みます。発音は第二声です。

古代イスラエル人は、エジプトから追われて東に逃げます。歴史上から消えた氏族が十氏族いたと言われています。そのうちの1つの氏族が、広い中国大陸の南ルートで楚(華南エリア)に住み着いて、王族の熊氏になったと思います。熊氏はつまり、「熊=シオン」の氏族ということです。

または、北ルートから中国入りした氏族が、徐々に中国にて南下したとも考えられます。

ここで、北ルートで中国大陸を目指したと思われる氏族がいたという妄想をしてみたのです。これも、中国語の呼び方から発見しました。さて、北方から来た民族とは、誰だと思いますか?

答えは匈奴です。匈奴の「匈」も、「Xiong(シオン)」と読みます。こちらは第一声です。

つまり、「匈=シオン」の奴という、字が表す通りの古代イスラエル人ではないのでしょうか。

匈奴の存在

内陸アジア

北ルートで中国に入った氏族は、徐々に東へ移動しながら、その一部が匈奴になったと思います。

匈奴はしばしば漢民族を脅かし、中原に進出しようと中央を脅かします。

余談ですが秦には、明らかに中国人とは特徴が異なる人たちがいたということも分かっていますね。秦の始皇帝も、明らかに古代イスラエル人的な特徴を持っています。

始皇帝

これは昨年、世界ふしぎ発見!で放送されたものです。最新技術で始皇帝の顔を復元したところ、スッと通った鼻筋が印象的な顔立ちで、明らかに中国系ではなく、ヨーロッパ系の人物の可能性があるということでした。

以前記事に書いた通り、古代イスラエル人(古代ユダヤ人)は山東省あたりで呂氏となり(姜姓呂氏,始祖は太公望=呂尚)、その呂氏の子孫である呂不韋が嬴政の父だとすれば、この説は裏付けられるということになります。呂氏の系譜を遺伝子的に解析したほうが早いと思っています。

世界ふしぎ発見!については詳しい記事を書いている方がいらっしゃいましたので、引用させて頂きます。

異民族の痕跡

ここで言いたいことは、西からやってきた民族が中国で活動していたことは否定出来ず、大きな勢力を持っていたことも否定出来ず、中華を最初に統一した秦の王=始皇帝ですらユダヤ系の混血だった可能性が高いということです。つまり、楚の王が熊姓を名乗っていて、それがXiong=シオンと読み、ルーツが古代イスラエルにあったとしても、全くおかしくはないのです。

話を戻しましょう。

匈奴を含め、古代イスラエルの血族は中国に溶け込んでいきます。秦に溶け込み中華統一を果たす秦の始皇帝の血族は、朝鮮半島を経由して日本に入り、秦氏(はたうじ)として活躍します。詳しくは弓月君のWikipediaをご参照ください。少し複雑なので、まとめてみます。

① エジプト→北ルート→匈奴
② エジプト→北ルート→弓月国→秦国→日本(秦氏)
③ エジプト→(北ルート経由)南ルート→楚国→日本(熊襲)
今回のコラムは、①と②について書いています。

時系列は少し整理して調べる必要があるのですが、Xiong=シオン=古代イスラエルの影が、匈奴という漢字にも見え隠れしているのは見逃せません。意外と、こういうシンプルなところに、真実があったりします。言葉(漢字)は昔からずっと受け継がれて残ってますからね。その痕跡を消そうという魂胆が後世で見え隠れするのですが、それは万世一系を正当化した記紀も同じです。

熊氏のXiong説同様、匈奴のXiong説を謳っている人はまだいないと思います。今後も引き続き追ってみたいと思います。恐らく…失われた十氏族は同じ種類の遺伝子構成ではなく、時代の移り変わりに合わせ様々なバリエーションがあった可能性があります。ちょっとオカルト的な話かもしれませんが、意外と面白い説だと思いませんか。

また、②で中国に残った勢力は、漫画「キングダム」を読んでいる方には非常に興味深い歴史を辿るので、時間がある時にご紹介したいと思います。



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