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楚王の姓①

上記の動画は、私が武漢市から新会社設立のために招待された武漢の開発区。入居する予定のオフィス(新築)まで決まっていた。新型コロナウイルスがなければ、今頃行政お墨付きの事業がスタートしていたはず…運命とは数奇。この湖北省=古代の楚が今回の舞台です。

※本記事は、以前他のサイトで書いた記事を再編集しています

古代中国南方のルーツと、楚人

突然ですが、私の遺伝子はハプログループBに属します。遡ると紀元前10世紀、中国南部が起源で、日本に来て縄文人になったそうです。

ここからは私の推測ですが…

中国南部と言えば楚。そう、あの秦の始皇帝が滅ぼした大国です。もともと中国南部では、北から流れてきた漢民族と、南方から来た民族が一緒に暮らしていたとされています。私はその楚人の流れなのではないかと感じています。今の湖北省あたりですね。武漢も湖北省です。楚です。

楚(紀元前11世紀 - 前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は郢と称したが、名前が同じだけで場所は何度か変わっている。

春秋戦国時代地図(高画素)

九州南部、襲国(ソノクニ)

楚人は、縄文時代あたりに日本に渡来してきて、九州南部にあった襲国(そのくに)に移り住んだ。この人々を、日本の記紀神話では熊襲(くまそ)と言います。

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襲国(そのくに)は恐らく楚国が変体した字だと思います。熊襲(くまそ)は、kamat(クマッ:奪う)またはkum(クム:立ち上がれ!)というヘブライ語が語源ではないでしょうか。

<参考>ヘブライ語辞典

<kamat+楚>だとクマッ・ソで「楚人が奪った土地」という意味に解釈できますし、<kum(クム)+楚>だとクム・ソで「楚人よ立ち上がれ!」という意味になります。

秦に滅ぼされた楚の人々は、この熊襲を拠点にその勢力を保ち、中国では一度滅んだ楚の魂を忘れなかったのです。熊襲が長年、日本の大和王権に抵抗していた…という話も辻褄が合います(民族紛争・権力闘争)。余談ですが、沛県出身だった前漢の高祖・劉邦も楚人ということになります。

で、ここで私はとんでもないことを発見してしまうのです。

楚の王族にはユダヤの血が流れていた!?

調べたところ、まだ誰もこの説を言ってません。実は、楚の王族の姓は代々「熊」でした。ここまでは史実です。ウィキペディアにも記載がありますので、ご参考まで。ちなみに「キングダム」の昌平君は楚の公子で、本名を「熊啓」と言います。

この「熊」を中国語で発音すると、Xiong(シオン)なのです。もともと発音は知っていたのですが、「これはもしや」と思いました。もう分かる人は分かったと思います。のちにエルサレム全体、さらにイスラエルの地全体への形容詞ともなったのが「シオン」です。

前述の通り、楚は北から来た漢民族と、南方から来た民族が混じり合っていました。私は、この南方から来た民族の中に、母国を追われて逃げてきた古代イスラエル人(ユダヤ人)が含まれていたのだと思います。楚の王族は代々古代イスラエル系(ユダヤ人)だった。

ユダヤ人がエルサレムにこだわるのは皆さんご存知の通りです。エルサレム=シオンを忘れないために、楚の王族はシオン=Xiong=熊の姓を名乗ったのではないでしょうか。

日本を目指した楚の民

楚の王族の一部は、勢力拡大のためか、もともと目指した土地だったのか、東=日本に向かいます。彼らは対馬海流に乗って九州南部に移り住み、その一帯を「襲国(そのくに)」と呼び、自分たちのことを「熊襲(くまそ)」と呼んだのです。「熊の姓」を持った楚の王族の一族が移り住んだのでしょう。そのまま、楚の王族=熊氏が襲った国、という捉え方もできますね。

そして、やはり前述の「熊襲がヘブライ語を組み合わせた造語」というところに、繋がるのです。

<イスラエル国歌>
心に秘めて今もなお
ユダヤの魂が呼んで
そして東方の岸へ、前へ、
目がシオンを目差している限りある――
我々の希望はまだ失わなかった、
二千歳の希望は、
自由なる民として、
シオンとエルサレムに暮らすこと

東を目指したことを知ってからこの歌の歌詞を見ると、深いですよね。

日本の祭りの発祥に残るシオンの心

そしてシオンの痕跡は、今や京都にも残っています。

「祇園祭というそのお祭りのしきたり、あるいはその縁起。もう間違いなくユダヤの文明と同じ形態と経過と結果を持ったお祭りです」

これは、祇園祭山鉾連合会の理事長・深見茂さんのコメントです。なんと祇園祭は、ユダヤ文明の特徴を持った祭りだと断言しているのです。

祇園祭とイスラエルの何が似ているのか。まず祇園祭という呼び方ですが、元になっているのはイスラエルの祭、「シオン(ジオン)祭」です。これが少し訛って「ぎおん」という呼び方になったのでしょう。それだけだと無理やりこじつけた…と思ってしまいますが、まだまだあるようです。

・祇園祭とシオン祭は、どちらも7月1日から1か月間、続きます。(シオン祭というのは、旧約聖書にあるノアの方舟が大洪水を乗り切ったことを祝う祭り)
・7月10日は、シオン祭は贖罪の日。祇園祭では神輿を清める儀式を行う。
・7月17日は、 ノアの方舟がアララト山に流れ着いた日。祇園祭では、山鉾巡行が行われます。(祇園祭の山鉾には、船の形をした鉾があるのです)
・祇園祭を執り行う八坂神社のyasaka(ヤサカ)は、ヘブライ語で「神を見る」という意味です。yasakhoh(ヤサコ)で「神の守護」という意味にもなります。

このあたりを深堀りしていくと完全に眠れなくなりますので、このへんにしておきたいと思います。

まとめ

色々と書きましたが、古代イスラエル人(ユダヤ人)が日本にやって来たことは間違いないと思います。当然、中国を経由しますので、血統は入り混じっています。

日本人とユダヤ人との関連性についてより詳しく知りたい方は、ヨセフ・アイデルバーグ著の「大和民族はユダヤ人だった~イスラエルの失われた十部族」という書籍をオススメします。非常に面白い観点で日本とイスラエル(ユダヤ人)との共通点を突いています。

私は古代日本の「熊襲」という民の存在をそこに加味して考えてみました。熊襲が大和民族と同化していく歴史があったのではないかと考えています。

その熊襲は、楚の王族であった。

楚の王族は、古代イスラエル人(ユダヤ人)の血が入っていた。キワードは、熊=Xiong=シオンである。これを立証することは困難ですが、自分の遺伝子的ルーツから妄想を広げると楽しい今日この頃です。

下記、続編です。







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