何者でもない軽さ
図書館に行くと、私の中にその時々でまるで二重人格のような自分が現れて面白い。
私の中のジキルくんは、急にとてつもないリアリストになり、流行りのビジネス書を読み漁ろうとする。
45歳までに学ぶお金の基礎とか、投資がどうのとか、性に合わない本をやたらと借りて、結局一ページも読まず、少し延滞気味に返却する。
結局、私の中の不安の現れなのだろう。
何者にもなれず、非正規労働者として働いているだけの自分への不安。自分がどう思おうと、それが分かりやすい私の社会的な定義だろう。
もう一方のハイドくんは、現実なんかクソ喰らえと言わんばかりに、社会不適合者まっしぐらである。
宗教、哲学、オカルト、文学系の研究にとても熱心だ。
いわゆる就職にはとっても不利な人文分野。
でも、仕方ない、結局こういうことしか興味がないんだから。
舞台作品を作っていた時、なんでこんなに大変な思いをしているのだろうと良く思った。
なんでリアルな生活をめちゃくちゃにしてまでフィクションを作りだそうとするのか?
舞台人の大抵は安定した収入には程遠い。
本人か家族か、近くの誰かが、長くは続かない無謀な働き方をしているだけだ。
ある役柄を演じる為に、その役柄のことを必死に研究する。寝ても覚めても、頭の中は舞台のことばかり。生活の全てが、本番の成功の為に捧げられる。
しばらく掃除されていない部屋、睡眠不足、栄養不足で出来た吹き出物、それらが熟成した頃、鬼気迫る勢いで終える舞台の充実感。
しかし、舞台が終演した途端、ただの日常のあまりのスカスカ具合に呆然とする。
昨日までの熱狂は何だったのだろう?
自分の生の中に誕生した、もう一つの生は生きる場所を無くして消えてしまう。
その時初めて、シャボン玉で堅固な塔を建てようとしていたのだ、と夢から醒める。
だが、果たしてその夢から醒めるのが幸せなのか、どうか。
俳優というのは、何者にもなれないが故に、何者かになった振りを許される、不思議な生き物なのだ。
因みに私は皆さんご存知の通り、俳優ではありません。
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